ここからの道のりがまた果てしなく熱く、容赦なく僕を照りつけた。
なんとか東院にたどり着いて、中へ入る。
そこには夢殿と呼ばれる八角堂がある。
マンガ『日出処の天子』では、よく夢殿に厩戸皇子が籠もるシーンがある。
だから、夢殿は上宮太子の生前からあったのだと思っていたが、
そうではなくて、行信という僧侶が、太子の死後に太子を偲んで建立したのである。
東院伽藍は、これで終了したが、本来であればここには太子等身大の仏像とされる救世観音がある。
春と秋の年二回のみの公開であり、当然夏の盛りには公開されていない。
飛鳥時代の木造の仏像である。
長年秘仏であり、白布でぐるぐるに包まれていたところ、
明治初期に岡倉天心とフェノロサがやってきて、見せろといったのだという。
法隆寺の僧侶は、これを開ければたちまちに地震が起き、夢殿が崩れ去るといって脅え、これを拒否したが、
フェノロサたちは明治政府の威光をもって、これを無理やり開けさせた。
フェノロサはこう語っている。
「千二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖輪内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し」、と。
梅原はいう。科学は勝ち、迷信は負けた、と。
しかし、と続けて云う。
秘仏は単なる美術品に堕した。
それが良いことなのか、そうでないのか、僕には判断がつかない。
できうることは、この仏像に対し、最大限の尊崇の念を払うことだ。
梅原の『隠された十字架』によれば、この像の後頭部には直接光背が釘で打ちつけられているのだという。
このような仏像はない。
常識で考えても仏様の頭に釘を打つなど、正気の沙汰ではない。
これこそが、上宮太子に対し、その怨霊を封じ込めた証拠なのである。
いずれまた訪れて、この最も恐れられた仏像を拝みたいと思う。
斑鳩宮を後にし、引き続いて隣にある中宮寺へ。
中宮寺は、太子の母である間人皇后が建てた寺である。
池のなかにお堂があり、靴を脱いで上がるかたちになっている。
靴を脱いで上がり、息を飲んだ。
そこには確かに仏がいた。
中宮寺の本尊、弥勒菩薩半跏思惟像である。
この弥勒菩薩は、中宮寺では長らく如意輪観音であると伝えられてきたそうだ。
しかし、そのような説明はいい。
今まで数えきれないくらい、写真でみたことのある仏だが、こうして本物を見ると一瞬で心が奪い去られるのを感じた。
釈迦の若いころをも念頭に置いたこの像。
ゆったりと足を膝の上に乗せ、右手でやさしく頬に触れている。
触れるか触れないかの指先は非常にしなやかで、やさしい。
口元には、ほのかな微笑みが立ち上っており、これほどまでに美しい像があろうかと、見る者を驚嘆させ続けている。
この仏像に触れてみたい、そういう衝動がうっすらと沸き起こるのがわかった。
時間を忘れて、ただひたすら拝み続けた。
弥勒菩薩と対話した、といえば、烏滸がましくもあろう。
しかし、仏に語りかけてもらいたい、という気持ちが強くあった。
今の自分の考えていること、思っていることを、この仏様に聞いてほしい。
真摯な気持ちで仏に向かえば、おのずとそうなるはずだ。
ましてや、古代の人たちは、強くそう思っていただろう。
そのように思わせるものが、美術品などであろうはずがない。
本当の仏像とは、そうした次元を超えたものであるはずだ。
亀井の文章を引用する。
「深い瞑想の姿である。半眼の眼差は夢みるように前方にむけられていた。稍々うつむき加減に腰かけて右足を左の膝の上にのせ、更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが、このきっちりと締った安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。厳しい法則を柔かい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く頬にふれている。指の一つ一つが花弁のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊かな感じにあふれていた。そして頬に浮ぶ微笑は指先がふれた刹那おのずから湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の生んだもっとも美しい思惟の姿といわれる。五尺二寸の像のすべてが比類なき柔かい線で出来上がっているけれど、弱々しいところは微塵もない。指のそりかえった頑丈な足をみると、生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘を彷彿せしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の痕跡もなかった」
30分ばかり、この仏像の前に座り続けていただろうか。
一心不乱に拝み続けていた。
菩薩は、そのうっすらとした微笑みに何を思っているのだろう。
その思惟はとてつもなく深く、そして広いものであろう。
世の中の移ろいは、非常に浅ましく、また陰惨なものである。
その中で、いかに衆生を救うべきか、すべてを判じ尽くした上で、澄み切った思いに達してこその微笑みである。
世は地獄である。
しかし、心安く往生を求めるわけではない。
地獄を地獄として生きる中に希望があるのだと、そう思ったとき、このえもいわれる微笑みが口の端に、ほのかに姿を見せる。
隣に、天寿国曼荼羅繍帳のレプリカがあったが、目にも止まらなかった。
いつまでも惜しくて動くことができなかった。
去ろうとしては、もう少し、もう少しと、いつまでも居続けた。
去るときは何度も何度も後ろを振り返ってしまった。
これだけで奈良に来た価値があった。
僕の心は今、洗われた。
中宮寺の入口で、この先に入ろうか迷っている集団が2つあった。
ひとつは外人の集団で、結局引き返して行った。
もう一人は日本人女性の集団で、ガイドブックを見ている女に、「どう? 入る価値ありそう?」と聞いていた。
「入った方がいいですよ」と思ったが、結局その集団も引き返して行った。
何も知らなければ、難しい思案のしどころだが、あの仏と出逢った後では、惜しいことをすると思わざるを得ない。
しかし、自分はこうして出逢えた。
そのことを今は素直に喜ぼうと思った。
法隆寺を後にして、あまりに疲れたのと空腹とを癒すために、少し休む。
おそらくは美味しくないだろうと思いながらも、法隆寺の前でそばを売っている店に入る。
天ざると柿の葉ずしを食べたが、別段美味くも不味くもない。
さて。ここからいよいよ古都奈良に向かうが、どうしたものか。
すでに2時近くになっている。
ここからまた灼熱の中、タクシーで法隆寺駅まで戻って、電車を待ち、奈良まで行くか。
JRの奈良駅から、奈良公園までは少し距離があるので、またそこから歩かなくてはならない。
時間と疲労とを考慮し、少しお金がもったいなくはあったが、タクシーを呼ぶことにした。
おそらく2、3000円でいけるのではないか、というもくろみもあった(地図上は10kmくらいと判断)。
そこでタクシーを呼び、乗り込んで、どれくらいでいけるか聞くと、5000円かかるという。
予想外の金額だ。
しかし、呼んでしまった手前ではいまさら降りるとも言い出しにくいし、あまりに暑いので金は諦めた。