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2008年07月23日
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カテゴリ:猿楠

奈良公園を突っ切って興福寺へ。
もう時間があまりない。

興福寺の境内よりも前に、国宝館に行った。
やはり休日なのでわりと人が多い。
が、東大寺にくらべるとゆっくりと観ることができる。

ここはまさに国宝だらけ。
ガラスケース越しにみるもどかしさはあるものの、ここを訪れない手はない。
なお以下で触れるものはすべて国宝である。

宝物館で、まず一番大きく目を引くのは、千手観音。
高さはなんと5.2メートルもある。
千手観音は42本の手を有し、胸の前で合掌する2本を除いた40本の腕がそれぞれ25の世界を救うとされ、
40×25で1000とされている。
ここの千手観音は、目立っているが、どうも顔が田舎くさい。
眉毛がつながっていて、『こち亀』の両さんみたいである。
親しみやすさはあるが、ありがたみがいまいちである。

ここにも弥勒菩薩の半跏像があった。
中宮寺のものほどの印象を得ないが、それでもやはり半跏像はよい。
特にこの像の金箔が印象的だった。

ここ興福寺は南都六宗のうち法相宗という。
法相宗は、三蔵法師・玄奘がインドから帰国した際、無著(アサンガ)・世親(ヴァスヴァンドゥ)の兄弟による唯識思想を中心とするものである。

無著・世親.jpg

日本では、最初に火葬されたことで有名な道昭が始め、玄ボウによって養老年間に大いに隆盛した。

当初は、法隆寺、薬師寺、興福寺が大本山だったが、法隆寺は現在聖徳宗を名乗って離脱しているので、興福寺と薬師寺が大本山である。
ちなみに、三島由紀夫の最後の作品『豊穣の海』は、輪廻転生と唯識思想をテーマとしている。
宮崎哲弥が、これを批判し、龍樹による中観思想を仏教の頂点とする視点から、唯識を仏教の堕落の始まりとしたことは、以前に述べた。

いずれにしても、日本における法相宗とは、奈良の古い仏教であり、マイナー宗派である。
「うちの宗派は法相宗」という人は少ないであろう。
これはとりもなおさず、奈良仏教はいまだ庶民に浸透していなかったことの表れといえるのかもしれない。

この法相宗の六人の高僧、木造六祖坐像がある。
玄賓、行賀、玄ボウ、神叡、常騰、善珠である。
いずれも運慶の父である康慶による鎌倉期のもので、非常にリアルである。

慶派といえば、金剛力士像。

金剛力士.jpg

捻じれ切り、隆々として血が通っているように脈打つ筋肉、リアリスティックの極みといってよい。
やはり目を奪われる。
腕が折れていることが、逆に生命の躍動感を感じさせるのは、ミロのヴィーナスと同じといっては、失笑を買うだろうか。
ミロのヴィーナスにどのような両手が想像しうるか。
どのような手をつけたとしても、今以上に美しくなることはあるまい。
腕が失われているからこそ、ヴィーナスはヴィーナス足りうるのである。

運慶の息子、康弁の手による天燈鬼・龍燈鬼。

but00024.jpg

リアルかつユーモラスな、珍しいものである。
いつもは、四天王に踏みしだかれている鬼たちが、元気よく飛び跳ねているのをみると、心なしか華やいだ気持ちになる。

乾漆の十大弟子像。
釈尊の十人の弟子の像だが、そのうち4体は失われ、舎利弗、目ケン連、須菩提、富楼那、迦旋延、羅ゴ羅の6体のみが現存する。

そして、八部衆。
五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、緊那羅、畢婆迦羅。
八部衆とは、またの名を天龍八部衆ともいい、仏を守る八種類の部族を云う。
もともとは、インドの鬼神、戦闘神、音楽神、獣神である。
五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。

五部浄.jpg


そして、阿修羅像。

阿修羅像.jpg

これを見に僕は興福寺に来たといってもいい。

直線的な細い腕。
はかなげで、美しさの極みである。
もともとはゾロアスターおけるアフラ・マズダーが起源とされ、それがヴェーダにおけるインドの戦闘神アスラとなった。
帝釈天と戦い続け、斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との云い伝えがある。

そうした悪の戦闘神がこれはどうしたことか。
無垢な少年そのままであり、そこに佇んでいる。

哀しく愁いを帯びた眸の中には、それでいてなお強い意志を秘めている。
年の頃で云えば、まだ筋肉がつききっていない、中学生の体であろうか。
その体の深奥には、性の芽を宿しているが、未だその自覚はない。
己に降りかかった運命に抗うことができないが、それをなお甘受してみせようという、非壮感にも似た決意が見て取れる。

asyura.jpg

このような像を目の前に、僕は声を失った。
この仏像の前で立ち尽くし、少し経つと他の仏像を見に廻る。
そしてまたこの仏像の前に戻ってくるのである。
そうしたことを何度も何度も繰り返した。
最終的にはこの仏像の前に戻ってきてしまうのである。

どうしたことか、この場を立ち去ることがなかなかできない。
阿修羅のその悲痛なまなざしが僕を捉えて離さないのだ。

このような仏像を作り上げる人間とは、いったいどういう人間なのだ。
このようなものを生み出して、なお平然と生活ができるものなのだろうか。
人が生みだしうるものなのかどうかも判然としないまま、そうして僕は国宝館の中をさまよっていた。

あの阿修羅像。
さまざまことを僕に想起させた。

あまり高尚ではないが、これはひょっとしてシャム双生児から着想を得たものなのかもしれない、と像をみて思った。
顔のつながった部分、当たり前のように自然に肩から生えている6本の腕。
人は本来、こうあるべきなのかもしれない、我々が奇形なのかもしれないとさえ思うほどだった。

嗚呼、あの阿修羅像は普通ではない。
法隆寺の百済観音、中宮寺の半跏思惟像と並んで、僕の中の何かを思い切り鷲掴みにされて振り回された気持ちになった。






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最終更新日  2008年08月13日 01時22分54秒
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