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偉大な牛

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猿楠

2008年08月01日
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カテゴリ:猿楠

明日からキャンプなので、夜、厚木へ向かう。
仕事もそこそこに忙しいが、とりあえず9時くらいには帰って来た。
ホカ弁を食いながら、なぜか『もののけ姫』を観る。
それなりに面白いと思う。

結局11時すぎくらいに家を出ることに。
キャンプ道具をわんさか詰め込んで、インプレッサでデッパツ。
この時間ならそう混んでないし、1時間くらいでつくだろ。

と思っていたのだが、なんか混んでいて動かない。
どーなってんだ、これ。
早く寝たいのに。

その間、ドバシ、ヨシヲ、イトキンたちが、明日についていろいろとやり取りをしている。
最初のうちは、どういったものを持っていくとか、明日は何時だとか、米は何合持っていけばいいんだとか、誰のクルマなんだ、とか
そういうまともな内容だったのに、
そのうち、もう寝なくちゃなとか、俺は眠いとか、いや俺は眠くないとか、だんだん意味不明になってきた。
早く寝ろよ、お前ら。

なんだかんだで1時近くに到着。
もう仕度は明日でいいや、ということで、寝る。

あ、寝る前に母親に、息子の写メを見せた。







最終更新日  2008年08月19日 23時07分18秒
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2008年07月25日
カテゴリ:猿楠
四天王寺から帰ってから、荷物をまとめつつ、弟が戦国無双をやるのを観ていた。
弟の助言で、駅に行って新幹線の切符を買うよりも、街中の金券ショップで前売り券を買った方が安いということになり、東京までの指定席を買っていた。
別に何時に帰ってもいいが、明日からまた仕事なので、そんなに遅くなりたくはない。

結局5時前に部屋を後にしたと思う。
弟は、難波の駅の地下鉄のところまで送ってくれた。
次、いつ会うのか知らないが、所詮は弟だからまたすぐ会うことだろう。

地下鉄などを使って新大阪まで。
ここで、さっき買った前売り券を切符に帰る、予定だった。

なんと指定席は、9時くらいまで満席ときた。
やはり3連休の最終日を舐めてはいけないようだった。
絶望感が僕を襲い、といってもさすがにそんなに遅い時間に帰るわけには行かないから、7時台のグリーン席を買った。
畜生。無駄に金を使うことになった。

結構頭にきたので、弟に電話をかけて文句を云う。
弟は、そんなこと知らないとしか答えなかった。
仕方ない、母親にでも売りつけるか、再び金券ショップに買い取ってもらおう。

弁当とビールを買って、新幹線に乗り込む。
何はともあれ、一安心だ。

帰りの電車では、本を読んだり居眠りしながら過ごした。
怒涛の3日間だったが、非常に楽しかった。
暑かったが、得たものは多かった。
ことに仏像と共有した濃密な時間と空間を忘れることはないだろう。

明日からはまた仕事だな、そういったことを考えているといつの間にか品川駅に着いていた。
東京に降り立つと、人々のエネルギーがすさまじい勢いで僕にのしかかってくる。
そうはいっても、今、ここでしか、僕の生活は存在しない。
古都に思いを馳せようと、仏像に心を揺さぶられようと、明日には現実が待っている。

そう思って、空をふと見上げてみた。
東京の空には、それでもなお星が輝いていた。






最終更新日  2008年08月18日 00時27分26秒
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カテゴリ:猿楠

いったん家に戻って少しだけ休む。
そうしてから、今度は、四天王寺へ。
四天王寺へ向かう道は、小さな商店街が続いており、非常に活気がある。
大阪のこういうところは観ていて、それとなく嬉しい。

四天王寺の起源は、上宮太子が、物部氏との戦の折に戦勝を四天王に祈願したところ、おかげで勝ったので建立したものだといわれる。

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wikiにはこうある。
敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)

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日本で最初の仏教の寺なのである。
いたるところに「日本最初」とあるが、「日本最古」でいいのではないかと思う。
同じようなことを柴門ふみも飛鳥寺を訪れたときに云っていた。

今日は月の市がたっているらしく、多くの人で境内があふれかえっている。

四天王寺の境内では、空海の像があって、四国八十八か所の碑がある。

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ここですべての碑に触れながら願いを込めて周ると、八十八か所巡りに替えることができるらしい。
弟と観ていると、なんかヘンなおばさんがやおら近づいてきて、やたらとお遍路めぐりを勧めてきた。
よくわからないが、そのうち行くよ、と云っておいた。

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中心伽藍を見に行く。
仁王門、五重塔、金堂、講堂とならぶ、いわゆる四天王寺様式は、もっとも古い伽藍配置ではあるが、
そのすべては火災に遭っており、現在のものは二次大戦後に鉄筋コンクリートで作られたものである。

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弟と2人で、五重の塔に登りそこからの眺めはよかったが、やはり中は鉄筋で、風情という意味では若干物足りない。
金堂では、上宮太子の本地仏とされる救世観音。
講堂では、阿弥陀如来と十一面観音が安置されている。
そして、日本仏教の祖として上宮太子が讃えられており、
最澄の天台宗、空海の真言宗、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の法華宗、一遍の時宗
のそれぞれの八祖がすべて上宮太子を尊崇していたとしている。
そういう意味で、四天王寺こそが仏教の基点であるとうたっているのである。

他にも、経堂、五智光院、本坊庭園などもあるが、あまりに暑いのでちょっと厳しい。

上宮太子が祭られている石灯籠をみて帰った。

帰り道では、仏教関係を多く取り扱っている書店があったので、ここでしばらく散策する。
数冊の本を買って、再び弟の家にたどり着いた。







最終更新日  2008年08月18日 00時26分21秒
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カテゴリ:猿楠

弟と2人、難波のまちを路面電車に揺られながら旅をしている。
ひどく暑くて喉が渇くので買ったばかりのペットボトルの減りがとても早い。
そういえば、行きに路面に乗る際に、阿倍野神社、晴明神社という表示を観た。
この近くに安倍倍清明にかかわる神社があるのかもしれない。

このあたりは、阿倍野区という地名だ。
晴明神社とはまったく予期していなかったが、ここに何かあるのだろうか。

宛てもなく、弟と2人で路面を降りた。
照りつける太陽は、本気で容赦がない。

その辺をぶらぶら歩いてみたものの、特に神社らしきものはない。
もう少し探したら戻ろうか、そんなことを云っていたとき、自転車に乗った老翁が近くに来た。
知ってるかもしれないと思って、話しかけてみる。
そうすると老翁も阿倍野神社を探しているのだという。
今日はお祭りがあるらしい。

阿倍野神社は明治に入ってからの新しいお宮で、晴明神社からはちょっと遠いという。
あまりに暑いので、明治以降の阿倍野神社は断念した。

路面電車通りを渡って、公番でさらに神社への道を聞く。
路面通りから、斜めに切り込んだ道をはいっていく。
ここは熊野詣でのための道だという。
はるか熊野に詣でるため、京の都から続く道なのだ。

由緒正しい古道を踏みしめて、僕ら兄弟は進んだ。

そうすると見えてきた阿倍王子神社。

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熊野の分身である九十九王子の一つとされている。
祭神は、熊野権現(伊弊諾尊・伊弊持尊・素盞嗚尊)である。
仁徳天皇が夢に熊野三山の使いである三本足の烏(八咫烏大神)を見て、それと同じものが当地にいたのが始まりといわれる
当時のこの地域は島であり、阿倍島という島があったらしい。

続いてあったのが、晴明神社。

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今昔物語などで有名で、数年前に大ブームを巻き起こした、史上もっとも有名な陰陽師である。
その晴明はこの地で生まれたといわれ、境内にはその産湯の井戸がある。

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信太妻伝説で有名な晴明の母の稲荷神社もあった。

僕は、思わぬ収穫に心躍った。

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晴明は、日本人のあこがれであり、スーパースターである。
神社で、晴明関連の本を買って、満足気に引き上げた。

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そこから天王子まで歩いた。
歩いた道のりはかなり遠く、弟は、「もう少し」を繰り替えすが、本当に暑い。

弟の家の近くで、おいしいという評判のたこ焼きを食べた。
そばめしを頼んで、たこ焼きを食べたのだが、あまりの美味しさに次々と追加注文し、
結局それぞれ15,6個以上食べてしまった。
なんだかよくわからないが、「ヤング」と呼ばれる味付けが至高であった。

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最終更新日  2008年08月18日 00時19分54秒
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カテゴリ:猿楠

今日もまたおそろしく暑い。
空が溶けてしまったようだ。

弟と8時ごろに目が覚め、弟が用意してくれた朝食をとりながら、
どこへ行くべきか、うだうだと評定していた。
大阪城へ行くか、四天王寺がいいか。

結局、まずは住吉大社に行こうということになり、路面電車に乗って、住吉まで。
のんきに路面に揺られるのも、なかなかよい。

10時頃に住吉大社についた。

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住吉大社は、摂津国一宮で、旧社格は官幣大社である。
また、日本全国の住吉大社の総本社だそうだ。
地域の人には「すみよっさん」として親しまれている。

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とてつもなく傾斜のきつい太鼓橋がある。
これは淀殿が慶長年間に寄進したものだそうだ。

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しかし、とてつもなく暑い。
弟と境内を周る。

第一本宮(底筒男命)
第二本宮(中筒男命)
第三本宮(表筒男命)
第四本宮(神功皇后・息長足姫命)

社殿の屋根は、直線的な切妻の檜皮葺でできており、また出入口が直線的である。
これが住吉造りと呼ばれる建築様式である。
一直線に四つの宮が並ぶかたちは全国でもここだけである。
第一本宮、第二本宮は修復中だったので、弟と第三本宮、第四本宮に詣でた。

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住吉三神は、伊弊諾尊が禊をしたときに綿津見三神と同時に生まれた神であり、海神である。
昔は、このあたりまで海が入ってきていたので、航海の安全などを祈願してここに祀られたのであろう。
「住吉」は、かつては「すみのえ」と読んだということであり、「澄んだ入り江」の意である。
住吉三神は神代のものだが、神功皇后は人代のものであって、応神天皇の母親である。
なぜここに彼女が祭られているかというと、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現・大阪府堺市七道)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む尾張氏の一族である土地の豪族が、住吉三神を祀ったのに始まる、とされている。

さらに境内には、武甕槌命、宇迦魂命、事代主命、大国主命、鵜茅葺不合尊、天児屋根命などが祀られている。
すごい神社だ。

なお、頼朝につながる清和源氏武士団を最初に形成した源満仲は、住吉大社の信託により、摂津国多田を本拠地とし、多田満仲とも呼ばれる。満仲を祖とする摂津源氏は、以後隆盛を極めることとなる。

裏に回ると、大きな楠があり、これを祀った稲荷神社の楠クン社がある。
商売繁盛、家内安全の神社で在る。

その他、安産・子宝を祈る種貸神社、芸能美容・女性守護の浅沢社、集金満足・心願成就の大歳神社がある。
これらの4つの宮を、月の初めの辰の日にまわることを、「初辰参り」とよび、「はったつさん」として親しまれている。
4年を一区切りとして、48回詣でれば満願成就となるというわけである。
大阪の現実的な人々らしく、商売繁盛を第一にもってきた宮たちである。

あまりに暑いがどうすることもできず、事務所のようなところに入った。
するとお宮参りをやっているらしく、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた人たちを3組ほどみた。
僕ももうすぐ父親になるので、少しく興味を惹かれる。

住吉を後にし、猛暑の中、路面で戻る。

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最終更新日  2008年08月18日 00時29分24秒
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2008年07月24日
カテゴリ:猿楠
興福寺から奈良駅までは歩くと結構距離があった。
近鉄線でもよかったのだが、JRまで歩いてしまった。

今晩、弟と何をして遊ぼうかと考えたところ、やはり『戦国無双』でもやるのがいいかと思い、
しかし、弟は持っていないだろうと思ったので、途中の中古ゲーム屋で買うことにした。
まったく同じ『戦国無双2』を買ってもしかたないので、
戦国無双と三国無双が一緒になった『無双OROCHI』を買ってみた。

帰りは、電車に揺られて天王寺まで。
非常に疲れた一日だった。

天王寺駅に降り立って弟に電話して迎えに来てもらった。
途中で、携帯の電池が切れ、あわやとも思われたが、弟は手際よく僕と落ち合ってくれた。
 
まずは、弟の部屋に行く。
大阪の部屋に行くのは(というか大阪以外でもだが)、初めてだ。
天王子駅から少し歩いたところに弟のマンションはあった。
ちょっと裏路地を入ったところにある、小さなマンション。
ここで弟が暮らしているのだ。

中に通されると、非常に狭い部屋がそこにはあった。
ただ、僕と違って弟は物をあまり持たない人間なので、そこまでの窮屈感はない。
窓からの眺めは最悪だった。

シャワーを借りて、服を洗濯機にぶち込み、少し落ち着いてから外に出た。
電車に乗って串カツを食べに行くという案もあったが、結局近くのお好み焼き屋にした。

弟とこんな風に2人きりで酒を飲むのは、初めてかも知れない。
お好み焼きを食べ、豚トロを食べ、ビールを飲んで、いろいろと話した。
というのも不正確かも知れない。今となっては何を話したのかまったく憶えていないからだ。
弟との会話とは、そういうものなのかも知れない。

ほろ酔いになった2人の兄弟は、コンビニ寄ってから部屋に戻った。
僕の洗濯物を干してくれる弟。
TVを観たり、買ってきたゲームをやったり(実際はそれほどやらなかったのだが)、
なんだかんだといいながら、3時くらいまで起きていただろうか。

本来であれば、僕が布団を下にしいて寝るべきなのだが、
ベッドで寝転がっているうちに、疲れていたせいか寝てしまったようだ。

朝、起きると弟が下に転がっていた。






最終更新日  2008年08月16日 14時21分51秒
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2008年07月23日
カテゴリ:猿楠

さて、興福寺の本体の方である。
国宝館を出るとそこはもう境内の入口だ。

先にも記したとおり、興福寺は法相宗の総本山である。
一千年にわたって君臨した貴族である藤原家の氏寺であって、開基は藤原不比等である。
南都北嶺というように、興福寺と延暦寺はやはり別格なのである。

奈良・平安の時代において法師どもは、権力の頂点にあり、
自分たちの意思を通すために春日大社の神輿を担いで回る「強訴(ごうそ)」をいうものを繰り返した。

ところで、『隠された十字架』によれば、本来四大寺とは、官寺である大官大寺(大安寺)・川原寺(弘福寺)、蘇我氏の氏寺である元興寺(法興寺)、そして薬師寺であったという。
そのなかで、奈良に遷都するにあたり、蘇我氏の氏寺である法興持は飛鳥の地に残され、残る3つは移転した。
そして、弘福寺は、いつのまにか興福寺に入れ替わられてしまったのである。
弘福寺は「ぐふくじ」と普通読むが、「こうふくじ」とも読める。
官寺であった弘福寺が、いつの間にか藤原氏の氏寺と入れ替わってしまっている。
しかも興福寺は、その中の筆頭的な地位を占めるにいたるのである。

もともと、藤原氏は中臣氏であったが、鎌足のときに藤原の姓を賜っている。
中臣は、もともと廃仏派であったにも関わらず、奈良遷都したことを機に一挙に仏教の保護者に変わってしまうのである。
世俗的権利の確立とともに、宗教的支配をも確立させるのである。
むろん、このころは、その2つは峻別されていなかったことだろう。
だからこそ、宗教的権威・権力を有することは、藤原氏の隆盛にとって欠くべからざるものであった。

興福寺の東金堂に入る。
東金堂(国宝)は神亀3年(762年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建したとされる。

中には、定慶がわずか53日間で作成したとされる木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)がある。
上宮太子があこがれた、あの維摩である。
また、木造の四天王像がある。
平安初期の作とされるが、鎌倉風と同じように写実的である。
木造十二神将立像(国宝)があるが、こちらは鎌倉期のものらしく、非常に動きにダイナミズムがあり、写実的である。

室町期の作とされる銅造薬師三尊像(重文)があり、
その脇侍仏として、日光・月光菩薩があるが、通常のものより大きい気がする。

東金堂を出て、さすがに疲れた。
夕陽が傾き始めている。

時間は5時。
今晩は弟の家に泊めてもらうため、弟に電話してみる。
すると、京都に今来ている、もう少し遅く来てほしい、などという。

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境内をぶらぶらして五重塔を眺めて居た。
法隆寺のものよりもずっと大きな塔だ。

少し疲れたので興福寺の境内に座り込んでいた。
夕陽に照らされた五重塔が美しかった。
やることもないので、文庫本を取り出して読んでいたのだが、何時の間にか眠ってしまったようだ。

19時近くになったので、帰ることにする。

一言観音堂と南円堂を参拝して、興福寺を後にした。







最終更新日  2008年08月18日 00時31分50秒
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カテゴリ:猿楠

奈良公園を突っ切って興福寺へ。
もう時間があまりない。

興福寺の境内よりも前に、国宝館に行った。
やはり休日なのでわりと人が多い。
が、東大寺にくらべるとゆっくりと観ることができる。

ここはまさに国宝だらけ。
ガラスケース越しにみるもどかしさはあるものの、ここを訪れない手はない。
なお以下で触れるものはすべて国宝である。

宝物館で、まず一番大きく目を引くのは、千手観音。
高さはなんと5.2メートルもある。
千手観音は42本の手を有し、胸の前で合掌する2本を除いた40本の腕がそれぞれ25の世界を救うとされ、
40×25で1000とされている。
ここの千手観音は、目立っているが、どうも顔が田舎くさい。
眉毛がつながっていて、『こち亀』の両さんみたいである。
親しみやすさはあるが、ありがたみがいまいちである。

ここにも弥勒菩薩の半跏像があった。
中宮寺のものほどの印象を得ないが、それでもやはり半跏像はよい。
特にこの像の金箔が印象的だった。

ここ興福寺は南都六宗のうち法相宗という。
法相宗は、三蔵法師・玄奘がインドから帰国した際、無著(アサンガ)・世親(ヴァスヴァンドゥ)の兄弟による唯識思想を中心とするものである。

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日本では、最初に火葬されたことで有名な道昭が始め、玄ボウによって養老年間に大いに隆盛した。

当初は、法隆寺、薬師寺、興福寺が大本山だったが、法隆寺は現在聖徳宗を名乗って離脱しているので、興福寺と薬師寺が大本山である。
ちなみに、三島由紀夫の最後の作品『豊穣の海』は、輪廻転生と唯識思想をテーマとしている。
宮崎哲弥が、これを批判し、龍樹による中観思想を仏教の頂点とする視点から、唯識を仏教の堕落の始まりとしたことは、以前に述べた。

いずれにしても、日本における法相宗とは、奈良の古い仏教であり、マイナー宗派である。
「うちの宗派は法相宗」という人は少ないであろう。
これはとりもなおさず、奈良仏教はいまだ庶民に浸透していなかったことの表れといえるのかもしれない。

この法相宗の六人の高僧、木造六祖坐像がある。
玄賓、行賀、玄ボウ、神叡、常騰、善珠である。
いずれも運慶の父である康慶による鎌倉期のもので、非常にリアルである。

慶派といえば、金剛力士像。

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捻じれ切り、隆々として血が通っているように脈打つ筋肉、リアリスティックの極みといってよい。
やはり目を奪われる。
腕が折れていることが、逆に生命の躍動感を感じさせるのは、ミロのヴィーナスと同じといっては、失笑を買うだろうか。
ミロのヴィーナスにどのような両手が想像しうるか。
どのような手をつけたとしても、今以上に美しくなることはあるまい。
腕が失われているからこそ、ヴィーナスはヴィーナス足りうるのである。

運慶の息子、康弁の手による天燈鬼・龍燈鬼。

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リアルかつユーモラスな、珍しいものである。
いつもは、四天王に踏みしだかれている鬼たちが、元気よく飛び跳ねているのをみると、心なしか華やいだ気持ちになる。

乾漆の十大弟子像。
釈尊の十人の弟子の像だが、そのうち4体は失われ、舎利弗、目ケン連、須菩提、富楼那、迦旋延、羅ゴ羅の6体のみが現存する。

そして、八部衆。
五部浄、沙羯羅、鳩槃荼、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、緊那羅、畢婆迦羅。
八部衆とは、またの名を天龍八部衆ともいい、仏を守る八種類の部族を云う。
もともとは、インドの鬼神、戦闘神、音楽神、獣神である。
五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。

五部浄.jpg


そして、阿修羅像。

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これを見に僕は興福寺に来たといってもいい。

直線的な細い腕。
はかなげで、美しさの極みである。
もともとはゾロアスターおけるアフラ・マズダーが起源とされ、それがヴェーダにおけるインドの戦闘神アスラとなった。
帝釈天と戦い続け、斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との云い伝えがある。

そうした悪の戦闘神がこれはどうしたことか。
無垢な少年そのままであり、そこに佇んでいる。

哀しく愁いを帯びた眸の中には、それでいてなお強い意志を秘めている。
年の頃で云えば、まだ筋肉がつききっていない、中学生の体であろうか。
その体の深奥には、性の芽を宿しているが、未だその自覚はない。
己に降りかかった運命に抗うことができないが、それをなお甘受してみせようという、非壮感にも似た決意が見て取れる。

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このような像を目の前に、僕は声を失った。
この仏像の前で立ち尽くし、少し経つと他の仏像を見に廻る。
そしてまたこの仏像の前に戻ってくるのである。
そうしたことを何度も何度も繰り返した。
最終的にはこの仏像の前に戻ってきてしまうのである。

どうしたことか、この場を立ち去ることがなかなかできない。
阿修羅のその悲痛なまなざしが僕を捉えて離さないのだ。

このような仏像を作り上げる人間とは、いったいどういう人間なのだ。
このようなものを生み出して、なお平然と生活ができるものなのだろうか。
人が生みだしうるものなのかどうかも判然としないまま、そうして僕は国宝館の中をさまよっていた。

あの阿修羅像。
さまざまことを僕に想起させた。

あまり高尚ではないが、これはひょっとしてシャム双生児から着想を得たものなのかもしれない、と像をみて思った。
顔のつながった部分、当たり前のように自然に肩から生えている6本の腕。
人は本来、こうあるべきなのかもしれない、我々が奇形なのかもしれないとさえ思うほどだった。

嗚呼、あの阿修羅像は普通ではない。
法隆寺の百済観音、中宮寺の半跏思惟像と並んで、僕の中の何かを思い切り鷲掴みにされて振り回された気持ちになった。







最終更新日  2008年08月13日 01時22分54秒
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カテゴリ:猿楠

タクシーで、奈良に向かう。
まずは、奈良駅から最も遠い東大寺に行こう。
東大寺を観た後は、春日大社か興福寺か、時間があれば両方観て、そのまま奈良駅に戻る。

タクシーの中で、運転手といろいろしゃべる。
運転手さんは、長らく大阪に住んでいたのだが、このたび奈良に家を買ったのだという。
奈良であれば、大阪の半分以下で家を買うことができるそうだ。
それでいて、大阪までも出勤可能圏内だ。

確かにこっちに来て思ったのだが、京都・大阪・奈良の三都は、いずれも非常に近い。
しかし、それぞれに向かうには山を超える必要がある。
大阪は海に面しているものの結局山に囲まれて居るし、奈良と京都はご存じのとおり盆地だ。
古都はいずれも非常に狭い地域の中で展開されているのだ。

そう思うと、やはり関東平野の広さというのは異常である。
家康が江戸に幕府を開いたことを感謝する必要がある。
まだ京都が都だったとしたら、地価は現在の数倍にも跳ね上がるし、建築物などの保護もままならなかったことだろう。

東大寺について、降りる。
やはり5000円かかった。

東大寺はもう行かなくてもいいかな、と思っていた。
修学旅行でも来ていたし、平成14年にも訪れている。
大仏はもう見なくてもいいのだと考えていた。

しかし、紫門ふみによれば、やはり仏像は東大寺なのだという。
東大寺を抜きにして語ることができないのだ。

なので再び東大寺の前に降り立つ。
やはり観光客が法隆寺よりも大分多い。

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東大寺の魅力はやはりその圧倒的なスケール。
南大門も大仏殿も(ともに国宝)その大きさの前には、言うべき言葉が見つからない。
大きさとはそれだけである一定の価値なのだ。

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しかし、驚くなかれ、現在でも十分に大きい大仏殿であるが(世界最大の木造建築物・高さ48m)、
建立当時は、現在とは比較にならないほどの大きさであったとされている(一説には二倍)。
さぞかし荘厳な大仏殿であったのだろう。
そして出雲大社はそれよりも大きかったのだとされているから、想像を絶するというほかない。

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聖武天皇が、夭逝した基皇子のために建立した東大寺。
聖武天皇は、仏教保護に篤い天皇であった。

聖武天皇が、坊ちゃん育ちで世間知らず、不比等や藤原四兄弟の傀儡にすぎなかったのか、
いやいや、そうではなくて、藤原氏に敢然と立ち向かった、麟気溢れる英名かつ信仰に篤い君主だったのか、
いろいろなキャラクターづけがなされているのが、なかなかおもしろい。
里中満知子の『長屋王残照記』では、聖武天皇は後者である。
理念を持った実力と血統の持ち主である長屋王が、藤原四兄弟の野望の前に葬り去られるのを、看過している。

一方で、個人的には、「それ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり」という帝の言葉には、
「朕は国家なり」といったルイ14世と同じ力強さと帝王の尊厳を感じる。
しかし、いずれにしても、一時代を築いた天皇であることに間違いはないだろう。
奈良・天平文化の隆盛を極めた天皇であり、それらの時代の代名詞である。

その妻であり、不比等の娘である光明皇后は、奈良随一の美女とされ、日本書紀でも聖女扱いである。
癩病患者の膿を、その唇で吸いだしたという逸話が残されている(この患者は、仏の化身だったのだが)。
このあたり、日本書紀は不比等の息がかかっているから、眉唾ものではあるが、
いずれにしても天皇皇后両陛下が、仲睦まじく政り事を執り行っていたというのが、巷のイメージである。

大仏殿は二度焼き打ちに遭っている。
一度目は源平争乱時に平重衡によって(その有様は、『平家物語』の記述がよく物語っている)、
二度目は松永弾正忠久秀によって。
その苛酷な歴史を経て、今、東大寺は佇んでいる。

個人的な感想をいわせてもらえば、その爛熟しきった平安朝文化よりも、
奈良天平文化に、国家としての気概を感じる。
力強さを感じる。
小野老朝臣が、
あをによし寧良(なら)の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
と詠んだのもむべなるかな。

その根本的な中枢が、この東大寺なのである。

さて、毘盧遮那仏である。

080720_144704.jpg 

やはり大きい。
東大寺の宗派は、華厳宗であり、大乗仏教典の一つである華厳経を根本におく。
華厳経は、大方広仏、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。

080720_145041.jpg 

陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。
これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
その名のとおり、荘厳かつ雄大な経典であり、司馬の『空海の風景』では、密教に最も近い経典とされている。
天台宗を開いた唐の智ギは、華厳経を、釈迦が成道後まもなく悟りの内容を分かりやすくせずにそのまま説いた経典で荒削りな教えであるとし、法華経が最高の経典であると判じた(五相判釈)。

080720_145101.jpg

両脇を、虚空蔵菩薩、如意輪観音菩薩が固め、さらに広目天と多聞天が守っている。
いずれも江戸時代の作で、重要文化財である。
持国天と増長天はない。
とにかく暑い上に、観光客が多すぎて疲れる。

そのあと三月堂に周る。
暑い中うっすらと暗い堂内に周ると、そこは天平仏の宝庫である。
不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、梵天、帝釈天、金剛力士、執金剛神、四天王。
不空羂索観音像は、和辻の友人が、天平随一の名作だといっている。

不空羂索観音像.jpg 

和辻は、
「全くそこには後光がさしているようであった。以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は薄明のうちに揺曳する神秘の光のように感ぜられ、言い現し難い微妙な調和をもって本尊を生かしている。この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている。それは色と光と空気と、そうしてその内に馳せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである」

と表現しているが、まさに名文である。

しかし、思うのは、やはり仏像は、こうして薄暗い堂内で観るに限る、ということである。
その意味で、この法華堂は、最高のかたちで置いている。

仏像をみてぶつぶつと言い交している老夫婦にあった。
仏像について割とくわしいようなので、少し話した。
チケットの裏に、どの仏像が何かということが書いてあるのだが、それを見ずにあれこれと言っていた。
四天王はどれかということを言い合っていたので、そのうちいくつかは金剛力士像だということを教えた。

三月堂を後にして、少し喉が渇いたので、お茶を買って飲む。
さて。
3時を回ってしまった。
ここから春日大社に行っていては興福寺は見られぬであろう。
興福寺は以前も見たことがあるが、やはりあの阿修羅像が見たい。
迷ったが、春日大社はあきらめ、

二月堂も戒壇院も転害門も行かなかった。
やはり東大寺もまた訪れる必要がある。
奈良を一度に見て回ろうということ自体が、非常に思い上がった行為だったのだ。

東大寺の鎮守である、手向山八幡に詣で、無事な出産を祈る。

そのまま奈良公園を降りて行き、興福寺に向かった。
胸が高鳴るが、時間がない。
少し焦る。







最終更新日  2008年08月11日 00時05分35秒
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2008年07月22日
カテゴリ:猿楠

ここからの道のりがまた果てしなく熱く、容赦なく僕を照りつけた。
なんとか東院にたどり着いて、中へ入る。

そこには夢殿と呼ばれる八角堂がある。
マンガ『日出処の天子』では、よく夢殿に厩戸皇子が籠もるシーンがある。
だから、夢殿は上宮太子の生前からあったのだと思っていたが、
そうではなくて、行信という僧侶が、太子の死後に太子を偲んで建立したのである。

東院伽藍は、これで終了したが、本来であればここには太子等身大の仏像とされる救世観音がある。
春と秋の年二回のみの公開であり、当然夏の盛りには公開されていない。

救世観音.jpg

飛鳥時代の木造の仏像である。
長年秘仏であり、白布でぐるぐるに包まれていたところ、
明治初期に岡倉天心とフェノロサがやってきて、見せろといったのだという。
法隆寺の僧侶は、これを開ければたちまちに地震が起き、夢殿が崩れ去るといって脅え、これを拒否したが、
フェノロサたちは明治政府の威光をもって、これを無理やり開けさせた。

フェノロサはこう語っている。
「千二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖輪内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し」、と。

梅原はいう。科学は勝ち、迷信は負けた、と。
しかし、と続けて云う。
秘仏は単なる美術品に堕した。
それが良いことなのか、そうでないのか、僕には判断がつかない。
できうることは、この仏像に対し、最大限の尊崇の念を払うことだ。

梅原の『隠された十字架』によれば、この像の後頭部には直接光背が釘で打ちつけられているのだという。
このような仏像はない。
常識で考えても仏様の頭に釘を打つなど、正気の沙汰ではない。
これこそが、上宮太子に対し、その怨霊を封じ込めた証拠なのである。

いずれまた訪れて、この最も恐れられた仏像を拝みたいと思う。

斑鳩宮を後にし、引き続いて隣にある中宮寺へ。
中宮寺は、太子の母である間人皇后が建てた寺である。

池のなかにお堂があり、靴を脱いで上がるかたちになっている。
靴を脱いで上がり、息を飲んだ。

そこには確かに仏がいた。

半跏思惟.jpg


中宮寺の本尊、弥勒菩薩半跏思惟像である。
この弥勒菩薩は、中宮寺では長らく如意輪観音であると伝えられてきたそうだ。

しかし、そのような説明はいい。
今まで数えきれないくらい、写真でみたことのある仏だが、こうして本物を見ると一瞬で心が奪い去られるのを感じた。

釈迦の若いころをも念頭に置いたこの像。
ゆったりと足を膝の上に乗せ、右手でやさしく頬に触れている。
触れるか触れないかの指先は非常にしなやかで、やさしい。
口元には、ほのかな微笑みが立ち上っており、これほどまでに美しい像があろうかと、見る者を驚嘆させ続けている。

この仏像に触れてみたい、そういう衝動がうっすらと沸き起こるのがわかった。
時間を忘れて、ただひたすら拝み続けた。

弥勒菩薩と対話した、といえば、烏滸がましくもあろう。
しかし、仏に語りかけてもらいたい、という気持ちが強くあった。
今の自分の考えていること、思っていることを、この仏様に聞いてほしい。

真摯な気持ちで仏に向かえば、おのずとそうなるはずだ。
ましてや、古代の人たちは、強くそう思っていただろう。

そのように思わせるものが、美術品などであろうはずがない。
本当の仏像とは、そうした次元を超えたものであるはずだ。

亀井の文章を引用する。

「深い瞑想の姿である。半眼の眼差は夢みるように前方にむけられていた。稍々うつむき加減に腰かけて右足を左の膝の上にのせ、更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが、このきっちりと締った安定感が我々の心を一挙に鎮めてくれる。厳しい法則を柔かい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く頬にふれている。指の一つ一つが花弁のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊かな感じにあふれていた。そして頬に浮ぶ微笑は指先がふれた刹那おのずから湧き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の生んだもっとも美しい思惟の姿といわれる。五尺二寸の像のすべてが比類なき柔かい線で出来上がっているけれど、弱々しいところは微塵もない。指のそりかえった頑丈な足をみると、生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘を彷彿せしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の痕跡もなかった」

30分ばかり、この仏像の前に座り続けていただろうか。
一心不乱に拝み続けていた。

菩薩は、そのうっすらとした微笑みに何を思っているのだろう。
その思惟はとてつもなく深く、そして広いものであろう。
世の中の移ろいは、非常に浅ましく、また陰惨なものである。
その中で、いかに衆生を救うべきか、すべてを判じ尽くした上で、澄み切った思いに達してこその微笑みである。
世は地獄である。
しかし、心安く往生を求めるわけではない。
地獄を地獄として生きる中に希望があるのだと、そう思ったとき、このえもいわれる微笑みが口の端に、ほのかに姿を見せる。

隣に、天寿国曼荼羅繍帳のレプリカがあったが、目にも止まらなかった。

いつまでも惜しくて動くことができなかった。
去ろうとしては、もう少し、もう少しと、いつまでも居続けた。

去るときは何度も何度も後ろを振り返ってしまった。

これだけで奈良に来た価値があった。
僕の心は今、洗われた。

中宮寺の入口で、この先に入ろうか迷っている集団が2つあった。
ひとつは外人の集団で、結局引き返して行った。
もう一人は日本人女性の集団で、ガイドブックを見ている女に、「どう? 入る価値ありそう?」と聞いていた。
「入った方がいいですよ」と思ったが、結局その集団も引き返して行った。

何も知らなければ、難しい思案のしどころだが、あの仏と出逢った後では、惜しいことをすると思わざるを得ない。
しかし、自分はこうして出逢えた。
そのことを今は素直に喜ぼうと思った。

法隆寺を後にして、あまりに疲れたのと空腹とを癒すために、少し休む。
おそらくは美味しくないだろうと思いながらも、法隆寺の前でそばを売っている店に入る。
天ざると柿の葉ずしを食べたが、別段美味くも不味くもない。

さて。ここからいよいよ古都奈良に向かうが、どうしたものか。
すでに2時近くになっている。
ここからまた灼熱の中、タクシーで法隆寺駅まで戻って、電車を待ち、奈良まで行くか。
JRの奈良駅から、奈良公園までは少し距離があるので、またそこから歩かなくてはならない。

時間と疲労とを考慮し、少しお金がもったいなくはあったが、タクシーを呼ぶことにした。
おそらく2、3000円でいけるのではないか、というもくろみもあった(地図上は10kmくらいと判断)。
そこでタクシーを呼び、乗り込んで、どれくらいでいけるか聞くと、5000円かかるという。
予想外の金額だ。
しかし、呼んでしまった手前ではいまさら降りるとも言い出しにくいし、あまりに暑いので金は諦めた。







最終更新日  2008年08月10日 22時18分27秒
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