345916 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

偉大な牛

PR

全2件 (2件中 1-2件目)

1

百鬼夜行

2008年06月18日
XML
カテゴリ:百鬼夜行
 何はともあれ、二人でどぶろくを飲むことになった。

「抜内君、君は今何所に住んで居るのだったっけね」
漂漉堂はいう。

「目黒だよ。何回言ったら覚えて貰えるんだい」
「ああ其うか、秋刀魚で有名な目黒か」

「落語のあれかい? 然し目黒で秋刀魚が採れる訳も無いのになぁ」

「だから君と来たら駄目だと云うんだ。君も文学者の端くれならば目黒で秋刀魚が採れる話の一つでも書いたら如何だい。君は文士の癖に想像力がまるで欠如している」
「重ね重ね失礼なやつだな。僕の想像力と来たら、湧くこと泉の如し、だぜ」

「ほう。ならば抜内先生、お伺いしましょう」
「いいよ」
「君は仏舎利がどれくらいこの世にあるか知っているかい?」

ははぁん。なるほど、漂漉堂の奴。私をからかう気だ。こんな途方も無い質問にまともに答えても此方が莫迦を見るだけだ。

「仏舎利というのはお釈迦さんのお骨のことだね。仏舎利塔なんで全国に在るし、東南アジアとかにも在るだろう。一寸見当が付かないなぁ。うーん、でもそうだな。仏舎利って云うんだから、丁度人一人分じゃないのかい」
私は漂漉堂が如何切り返してくるか、わくわくしながら適当に答えてみた。

「全部の塔に納まっている骨片を集めると、丁度象一頭分くらいの骨の量になるそうだ。さぁ、そこで大先生、この話を如何お考えかい?」
「如何って莫迦莫迦しい話だ。其処迄して嘘を吐いて寺院は権威付けをしたかったのか、それとも分骨の際に水増しした不逞の輩でもいるのか――」
「ほら、それだ。だから想像力が無いと云うんだよ、抜内君。如何して、へぇ、お釈迦様はそんなに大きな人だったのか、と考えないんだい」

漂漉堂は実に愉快そうに、子供のように笑った。
私も釣られて笑った。

私はコップに注がれたどぶろくを飲みながら云った。
「処で、漂漉堂。秋刀魚は未だ季節じゃないから無いにしても、何かアテが無いと酒も飲めないぜ」

「おっと、其うか。御免よ」

「此れで良いかい?」と云って、漂漉堂は、壺を出して来た。
徐に開けると何か薄い茶色係った白い柔らかいものが入って居る。

「何だい? 此れは」と云い乍らもぞんざいな私は既に口に放り込んで居た。

すると、漂漉堂はとんでもないことを云い出した。
「其れは骨壺さ。今君が食べたのは仏舎利だよ」

「何だって!? 気でも狂れたのかい!」
私は動転した。

すると漂漉堂は、涼やかに、そう、まるで芥川龍之介のポォトレェトのように、笑った。

「君って奴は如何して此う何でも引っ掛かるのかな。注意力が無いのかね。これは・・・・・・」

どぶろくが急に回り出したのか、私の意識は突如として遠退いて行った。
嗚呼、漂漉堂が何か云っている。


「寿留女だよ。そう、つまり・・・・・」


そして、私の意識は奈落の底深く、
ゆっくりと落下していった。

りん、と風鈴が鳴る。


其のとき、漂漉堂が何を云ったのか、私は遂に聞き取ることが出来なかった。


寿留女の ――― 夏だ ―――


夜半ごろに強い雨が降り出したらしく、次の日の朝、漂漉堂の家の庭を見ると、しっとりと濡れそぼっていた。

「暑いな、真夏だな」
私はたっぷりと汗をかいていた。
漂漉堂は例によって怒ったような顔で、
「そりゃあそうさ。寿留女は夏にしゃぶるものだと相場が決まっている」

「寿留女の ――― 夏だ ―――」

見上げると雲ひとつない抜ける様な青空である。

そして私は、坂のたぶん七分目辺りで、大きく溜め息を吐いた。





「寿留女の夏」  終  






最終更新日  2008年06月19日 23時08分01秒
コメント(5) | コメントを書く


2008年06月16日
カテゴリ:百鬼夜行

 寿留女―――

スルメ
(鯣)は、烏賊の内臓を取り除いて素干しや機械乾燥などで乾燥させた加工食品。乾物の一種。古くから中国南部、および東南アジアにおいて用いられている食品で長期保存に向いている。日本では縁起物とされ結納品などにも用いられ寿留女と表記される。俗語としてアタリメとも言う。


何処迄も暗い坂を登り詰めた先に、目指す漂漉堂が在る。


久し振りに帰郷したのは良いが、如何せん遣ることが無い。実家に帰っても母親に懐かしがられるのはほんの一瞬だ。二日も経つと寝てばかりいて何の役にも立ちゃしないとか何とか愚痴を云われるのが関の山だ。犬と散歩に出掛けたり、持って帰ってきたフロベェルの本を読んだりしたが、如何にも斯うにも落ち着かない。

其れは夜だった。昼間では思うように鳴き切れないのか蝉が夜も必死にその短い命を掻き鳴らしていた。私はといえば、遣ることもないので、ビィル瓶を持ったまま、ふらふらと散歩に出掛けた。「昔よく此うして夏の夜に宛ても無く歩いたものだなぁ」 私は思う。少々酔っ払ったのか口笛を吹きながら歩いていると、既に大分来てしまったようだ。この辺りは人家が少なく大分暗い所で、坂になって居り、「うとう坂」と呼ばれて居る。その昔、人気の無い此の坂を歩くときは、みな怖いので歌を歌いながら歩いたと云うのがその謂れだ。

私が生まれ育ったのはK県のA市の荻野というところだ。
荻野は江戸時代までは荻野山中藩と呼ばれて居り、徳川家康の譜代家臣の中でも筆頭と云われる大久保一門の支藩である。初代藩主大久保教寛は大久保忠隣の曾孫で在り、山中藩は一万三千石の小藩で、五代藩主の大久保忠翅が山中陣屋という屋敷を作って政庁とした。今でも山中陣屋跡という史跡となって居り、公園が在る。
御一新と伴に廃藩され、荻野山中県と成ったが、その後足柄県に統合され、現在に至っている。

荻野には新宿と呼ばれる界隈が在り、嘗ては宿場町として栄えたとのことである。また明治初期は自由民権運動が盛んだったらしく、彼方此方に運動家の史跡が残っている。
山中陣屋の近くに公所と呼ばれる地名がある。恐らく陣屋があった名残りで在ろう。


如何やら、私はその公所と呼ばれる辺りまで来て仕舞ったらしい。
其う云えば、尋常小学校のときからこの辺りでよく遊んだ覚えが在る。私は尋常小学校(五年生のときに国民学校へと名称が変更されたが)を卒業し、その後第三中学から東京の一高へ進み、更に大学は早稲田大学へと進んだ。現在は東京でしがない文筆業を営んで居る。本来は小説家を志して居るのだが、其れ丈では日頃の糧にも困る有様なので、カストリ雑誌へ寄稿して居る次第で在る。名前を抜内辰巳(ぬきうちたつみ)と云う。

其うだ、折角此の辺り迄来たのだ。彼奴のところへ顔を出して遣ろう。私はふと思った。公所には一軒の古惚けた呉服屋がある。「中禅寺呉服店」と書かれた煤けた看板が下がっているが、今にも擦り落ちそうだ。当然この時間なので呉服店は閉まって居たが裏の母屋の方へ廻ると、煌々と灯りが照らされている離れが在った。


「よぅっ、漂漉堂(ひょうろくどう)。」
私は、灯りの向こうで揺らめいて居る影の主に声を掛けた。
すると、影の主はゆっくりと落ち着いた声で私に返答した。
「其の声は、抜内君だな。相変わらず騒々しい男だ」
「久し振りに実家に戻ったのでね。君の顔を見ながら一杯遣りたくなった」
私は云いながら、図々しくも既に草履を脱いで座敷に上がって居る。
「人を酒の肴みたいに扱う男だね君は。如何れ、昨日買って来たどぶろくが在る。遣るかい」
「どぶろく? 拙いよ、お上に知られたらコトだぜ」
私は、漂漉堂が勧めてきた薄汚い座布団に座り込んだ。
「君のような三流文筆家が、酒税法違反により官憲に捕縛されたところで如何だと云うんだ。寧ろ、今時分流行りのデカダンなイメィジの箔が付いて、洒落て居るじゃないか」
私は、手を軽く振りながら、「云ってくれるね」と返した。

そして、改めてゆっくりと周りを見渡した。
相変わらず、蟻の這い出る隙間のない位の蔵書の山だ。大学の図書館にも匹敵すると云って良い。
古今東西のあらゆる分野に関する本が此処には在るが、歴史、哲学、宗教、民俗学に関する書籍が特に多い様に思う。

此の男の名前は、中禅寺淳一(ちゅうぜんじ・じゅんいち)。表通りに在った石井呉服店の跡取り息子だ。
此の男と私の付き合いは長い。尋常小学校から第三中学、一高まで一緒だった。然し、彼はその後東京大学へと進み、東大始まって以来の大秀才と云われ、当時の指導教授から是非研究職にと勧められて居たのだが、何を如何考えたのか、卒業した途端に田舎に引き込もり、家業の呉服店を手伝って居る。聞いたところに拠ると呉服店を営む傍らで神職の資格を取得し、気が向いたときに副業として近くの神社(名前は忘れたが)の神主をも務めて居るらしい。
中禅寺淳一と云う立派な名前が在るのだが、私は其うは呼ばない。中禅寺は、小学校の折から、骨と皮ばかりの男で ―― と云ってもあの時分の子供は皆一様に似た様なものだったが ―― ひょうろく玉と渾名されていたのだ。其れをもじって、三十路を過ぎた今でも私は彼のことを漂漉堂と、おそらく親しみを込めてだが、呼ぶ。

何はともあれ、二人
でどぶろくを飲むことに成った。

 

寿留女の夏  続く







最終更新日  2008年06月18日 00時30分50秒
コメント(0) | コメントを書く

全2件 (2件中 1-2件目)

1


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.