カテゴリ:その他、芝居(ドラマ・映画・舞台)
自分の存在が認められない約束。
子供を認められない親。 否定と喪失の痛みが、二人を突き動かす。 “純粋”すぎることが、美徳だとは限らない。 そんなことを、今回は感じました。 宮古を失ったことで、心のバランスが崩れ、『脅迫行動』を繰り返すテル。 その姿が怖かったんです。 あまりに曇りも無く、ただ一人の人間を求め、突き進んでしまう想いは、あまりに大きすぎます。少なくとも私の感性では想像し、共感することすら困難です。 そんな怖さを秘めた、“純粋さ”だったのです。 『宮古の約束』と『脅迫行動』について。 >「私は、河原さんと約束したの。」 テルは、言葉どおりに受け止めます。 その言葉をそのまま、“テルとは約束していない”と受け止めたのですね。 そして“自分と宮古との絆が消滅した”と感じたのですね。 その『喪失』のプレッシャーを、テルは『涙や愚痴や呆けること』で昇華することができなかった。 ただ『脅迫行動』でしか、示すことができなかったんですね。 『感情が示せない』というのは、確かに『他人とコミュニケートする上での障害』です。 しかし、それと同時に『自分の気持ちを整理、昇華できない』という意味もあります。それは、『パニック障害』という形で現われる場合も、『脅迫行動の悪化』という形でも現われるのですね。 その意味を私は、テルの姿を通して、深く噛み締めました。 テルの喪失感の原因は『約束』。 だからこそ、テルを回復するには『テルと宮古の約束』が必要だったのでしょう。 『一緒にいる』という約束でなくてもいい。 ただ、『約束』という形でテルと宮古をつなぐことができれば、良かったのですね。
>「これが始めてだよ。 息子が自閉症だってこと、誰かに話したの。」 “言葉にすることは、自分の中にあることに形を与えること。 意識を自覚すること。” 『話す』ということは、話し手自身にも大きな影響を与えます。 その『話す』ことを介助し、変化と自己治癒を促す『カウンセラー』が職業として成り立つほどに。 テルを見続け、自分の中の思い込みを突き崩され。 第四話では、“『偽善』という言葉で、逃避する自分を正当化している”ことを自覚させられ。 それらを受けて、ようやく彼も、『過去』の存在を認めたのですね。 一度『過去』の存在を認めれば、それから積み重ねた経験と照らし合わせ、違う角度から認識しなおせるようになります。 古賀は『過去』を振り返る痛みを受け止めつつ、『過去』と『現実』を重ねることで、両方に対する認識を少しずつ変えていきます。 『話す』ことが、大きなきっかけとなり、変わり始めるんです。 偽善について。 >「これも、妻の為というよりは自分の為かな」 『誰かに何かをするのを『偽善』とためらい続ければ、人はきっと誰にも何もできなくなる。 だから『偽善』でもいいと割り切り、はっきりと行動に移なくてはいけない』 これ、私のポリシーです(苦笑)。 ここまで割り切らないと、『ネチケット・サイト』とか『ファンマナー・サイト』なんてできませんでした。 チキンハートですからね。 『情けは人の為ならず』。 昔の人はそう言って、『自分の為にするんだ』と割り切って行動していました。 他人からのやっかみや邪推を恐れたりするのは、近代の悪い風潮なんですよね。 古賀は『偽善』を否定することで、動くことを自分に禁じてきたのだと思いました。 叫び続ける我が子を背に、 「あんな観衆の前で、嘲笑と憐れみを受けて、理解できない存在を抱けだって?」 と、『偽善』を笑い、自分の行動力を正当化してきたのだと思います。 例えば、『これから古賀がテルを助けた』としても、古賀の過去は帳消しにはなりません。 『テルと息子を重ねた』としても、『罪悪感から動いた』としても、それは古賀の自己満足にしかならないでしょう。 でも、それでもいいんだと思います。 そんな『偽善』こそ、彼本人にとって一番必要なものなのですから。 数ヶ月前、朝の某特撮番組でこんな言葉を聞きました。 >「自己満足であっても、過去を消せなくても、それらをすべて受け止める。 それでも自分は前に進まなくてはいけないから」 この言葉が、今の古賀にもっとも当てはまると思います。 『『偽善』と『善行』の境界など、きっと突き進む間に消えてしまう』 少なくとも、私はそう信じています。 カウンセリングについて。 >「話したくなったら、いつでもどうぞ」 聞くこと。 それこそが『カウンセリング』の本質なのです。 本当は、誰もが『大切な存在に対する、一番のカウンセラー』なのです。 しかし、“時間を掛けて話を聞き、それを受け止め、共感し、肯定すること”を、近代化と引き換えに苦手としてきました。 それ故に『心療内科』などのカウンセラーにかかる患者が増えてきました。 医師である堀田の言葉は、職種に忠実で誠実なものであったと思います。 また堀田の、誠実に聞き、共感し、『肯定』を心がける様子も、『カウンセリング』の基礎に忠実であると感じました。 『僕の生きる道』でも、主人公の主治医は『カウンセリング』の基礎を忠実に守っていましたよね。 逆に『共感・肯定』を失えば、人の心は簡単にバランスを崩します。 幸太郎がおかれた環境がまさに、それです。 両親が子供に『共感・肯定』を行えば、子ども自身の存在を実感させてあげられます。しかし、真樹はそれを完全に放棄しているのです。 堀田がりなに掛けた言葉も、本来は肉親や友人が言うべき言葉です。 しかし、これまでりなには、『話を聞く、カウンセラーたるべき存在』が一人も居ませんでした。 『カウンセラー』でなければ、『共感・肯定』できない現代社会は、あまりに歪んではいないでしょうか? りなも古賀も、『話す』ことで自分の問題意識を自覚しました。 これから行動に移っていくのでしょうね。 真樹と幸太郎の『概念の違い』。 >「結婚したときの約束っていつの間にかうやむやになっちゃったりするじゃない」 この人は、『約束の拘束力』を信じていないのですね。 自分が約束をたがえたのも、悪意があったわけではないんです。 『約束とは、うやむやになったり、内容が変わって当たり前』 そう思っているのですね。 だからこそ、『結婚時の約束』という大切なものさえ、確認しなければ安心できないんですね。 この辺りに、幸太郎との『概念の違い』を感じますね。 第三話で里恵が真樹の >「幸太郎は誉めると調子に乗ってダメになるタイプなんですよ。」 という言葉に対し、 『ああ、この人も自分の子供のことを分かっていない。 子供の気持ちが分からないのは、自分だけじゃない』 と安堵の笑みを浮かべるシーンがあります。 もちろん、テルと里恵の間における『概念の違い』は目に見えるほどに大きいです。 しかし幸太郎と里恵の『概念の違い』も、目には見え難くても、確かです。 人はそれぞれに『概念の違い』を持ち合わせていて、それがトラブルや不快感を引き起こすのだと思います。 『概念の違い』は親子の間ですら存在するんです。 …それは大きさこそ違えど、テルと周りの人間との『概念の違い』と、何も変わりは無い。 私はそう感じています。 前半でもたらされた環境の変化が、種をまきました。 これからそれらの種が、芽吹き、形を作り上げます。 古賀、真樹、幸太郎、りな…。 変化の予兆を見せる者、変化に気づかない者、それぞれがどう代わるのか楽しみです。 そしてテルの歩く先に何があるのか。見届けたいと思います。 時は戻らず、失った物は返らない。 されど人は、前に進まなくてはならない。 喪失の痛みも、後悔も、全て抱え、全てを昇華することでしか、生きることはできないのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/11/18 10:14:18 PM
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