カテゴリ:分類不能系
昨日書いた半ケツ母ちゃんの件で思い出したけど、このごろの親は昔の親に比べ、非常に無気力だと感じる話を、最近聞いた。例の勘違い従姉と食事をした時、「子どもの夏休みの宿題なんて、どーでも良い親が多いみたい」という話が出たのだ。
今は折しも夏休み。そろそろ終盤である。小・中学生くらいの子どもを持つ親御さんは、さぞや宿題の件でヤキモキしているだろうと思っていたのだが、そうでもないらしい。従姉は子どもにヤイヤイせっついて、連日ヒステリー気味だが、クラスメートの親たちは結構、知らん顔なのだそうだ。 「やるもやらぬも本人次第」と、そうした親たちはいやに、子どもの自主性を尊重しているようなことを言うが、実質は「気力がないんじゃないかしら」と従姉。宿題のことで、子どもをせっついたり、叱ったりするのは、「そりゃーもー、エネルギーいるのよ」だそうだ。 「子どもの頃は、母(私の叔母であるが)に叱られるたびに、私がオトナになったら、絶対にヒステリックに怒りまくるようなオヤにはなるまいって思ったけどね、実際オヤになると、子どもの将来を考えるから、どうしたって叱っちゃうのよねぇ」 学校の勉強ができるできないよりも、与えられたタスクを、期限内にこなせないようでは、オトナになったときにロクなモンにならない、というのが従姉の考え方であり、私も社会人の端くれだから、それにはすごく同意する。学校って、もちろん勉強のデキも大切だけど、外部からの規制に(自主性を保ちながら)ある程度従う素養を作る場所でもあるんだろうと、来た道を振り返ってみてそう思う。 ま、それはともかく、従姉によれば、子どもの宿題を心配しないオヤは、子どもの将来を真剣に考えていない、と言う。それが本当かどうかは、それぞれのケースで違うだろうけれど、「我が子を叱る」ということが、かなりのエネルギーを要する作業だということは、私にも察せられるのだった。「私だってねー、好きでヒステリックになってるワケじゃ、ないのよー」と従姉。 私も子どもの頃は、子どもをやみくもに叱らない親になりたい、と思っていた。でも、もし私が親になったとしたら、叱らないのはたぶん、そんな気力が無いから、ということになりそうだ。架空の子どもを想定しているので、あんまり実感はないけれど、自分のことに手一杯で、子どものことにまで、真剣になるだけのエネルギーは無いかもしれないと感じている。 まー、そんな風だから、子どもを持とうという気力もない(ついでにチャンスもない)のだろうけど、とにかく、叱ってくれる親というのは、得難い存在なんじゃないかなと、最近思う。 昔の人は、親になってみなければ、親の心や苦労は分からないというようなことを言っている。でも最近の親世代は、親になりきれていないような、そんな気もする。 そうそう、田宮二郎版の「白い巨塔」のダイジェストを再放送していた(まだしてる?)けど、あのころの彼は、42、3歳だったはずだ。リメイクの「白い巨塔」で、同じ財前を演じた唐沢寿明さんは、今現在で41歳。とても同年代とは思えない。 最近の人の方が若々しい、というのは確かにある。最近は40代の女性も、すっごく若いし綺麗だもんね。でも、田宮二郎が老けているとか、そういうことではなく、彼の方が唐沢さんよりも、はるかに「大人っぽい」と感じる人は多いのではないだろうか。 社会が求める「らしさ」の違いかな、と思う。昔は、男は男らしくとか、母親は母親らしくとか、嫁とはこうあるべき、とか、外からの強制が強かった。今は、そういう拘束力が、格段に落ちている。だから「自分らしく」いられるという自由もあるんだけど、「分を知る」という言葉に代表されていたような、自分を押さえたり、我慢する力を鍛えるチャンスは、かえって失われているような気もする。 何を言ってるんだか分からなくなってきたけど、今は若さと軽薄さが混同されがちだし、老けることと大人になることが、混同されてもいるような気がする。うーん、余計にワケ分かんないし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年08月24日 08時43分17秒
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