瀬名波川平の湧き水と神が宿る天然隧道@読谷村「瀬名波ガー/イビーヌメー」
(瀬名波ガー道)沖縄本島中部にある読谷(よみたん)村に「瀬名波(せなは)集落」があり、集落の東部には「瀬名波海岸」の美しい天然浜が広がっています。その昔、この一帯には「川平屋取(かわひら)集落」と呼ばれる屋取(ヤードゥイ)集落がありました。屋取集落とは18世紀の初めに、首里から士族の帰農により沖縄本島の各地に形成された小村落を言います。なお、この土地には「川平原貝塚」があり、紀元前5000年頃から11〜12世紀のグスク時代の始まりまでの「沖縄貝塚文化」の時代から人が生活していました。この「瀬名波ガー道」は琉球王府が編纂した歌謡集の「おもろさうし」には「瀬名波川平」や「瀬名波磯坂」と謳われています。(アバシヌンジシティガマ)(アバシヌンジシティガマ)「瀬名波ガー道」を下り浜に出る手前に「アバシヌンジシティガマ」と呼ばれる自然洞窟があります。沖縄戦の際に集落の住民の避難壕として利用されていました。この洞窟の上にアメリカ軍の爆弾が落ちましたが、巨大なガマは頑丈で壊れず避難していた人の全てが無事でした。「アバシヌンジ」は"ハリセンボンのトゲ"を意味し「シティ」は"捨てる"を意味します。この「ハリセンボンのトゲを捨てる洞窟」を意味するガマは貝塚時代の先人が暮らした住居跡と考えられています。更に、かつてはこの周辺で採れる「クチャ」と呼ばれる粘土質の泥土を石鹸代わりにして水浴びをしたとも伝わっています。(瀬名波ガー)(瀬名波ガー)「アバシヌンジシティガマ」の西側にある岩陰から「瀬名波ガー」の水が湧き出ています。水道が普及される前まで「瀬名波集落」は水源が乏しく集落内の井戸も少なかったため「瀬名波ガー」で洗濯や水浴びをしていました。戦前まで近隣の「川平集落」の住民は急勾配の坂道を上り下り「瀬名波ガー」から水を各家庭に人力で運ぶ重労働を強いられていました。集落で子供が産まれると産水として井戸の水が利用され、旧正月元旦には若水を汲んでいました。1904年の大干魃でも井戸の水は枯れず、周辺の集落から「瀬名波ガー」に水を汲みに来ていたと伝わります。亥年の最初の亥の日に「瀬名波ガースージ」と呼ばれる祝いの祭祀が行われています。(イービヌメー/イービヌ前)(イービヌメーの風葬墓)(イービヌメーの堀込墓)「瀬名波ガー」の南東側に「イビーヌメー/イビーヌ前」と呼ばれる岩石の自然トンネルがあります。「イビ」とは「琉球国由来記(1713年)」では「イベ」とも呼ばれ、神が宿る聖なる場所を意味しています。この天然岩のトンネルは神の領域への入り口として崇められ「瀬名波集落」ではシーミー「清明祭」に住民により拝されています。「イビーヌメー」のトンネル内部には古い風葬墓が現在も残っており、洗骨された遺骨を収める亀厨子を囲む為に幾つもの石が積み上げられています。また「イビーヌメー」のトンネルを抜けると岩崖の中腹にある天然洞窟を利用した堀込墓もあります。この古墓の墓門には献花が供えられ、現在も子孫により大切に参拝されています。(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)「イビーヌメー」の隧道(トンネル)を抜けた先には「イェーヌガマ」と呼ばれる自然洞窟の北側の入り口があります。「クラシンガマ/暗しんガマ」とも呼ばれる薄暗いガマの内部を進むと沢山の石が積まれた大小幾つもの風葬墓が点在しており「イェーヌガマ」は主に風葬の為に利用された洞窟である事が分かります。集落から離れた崖下の浜に隣接したこのガマは、死者の遺体を効率よく腐敗させて骨にする為に適した環境がある自然洞窟でした。風葬墓は沖縄の墓の種類で最も古い形の墓であり、火葬が普及する以前から存在した昔の沖縄の風葬文化を知る上で非常に重要な資料となっています。(イェーヌガマの東側入り口)(イェーヌガマの堀込墓)(堀込墓の内部)「イェーヌガマ」の東側の浜からの入り口には、漂流してきた1本の大木と2つの巨岩があります。この巨岩はガマの門のように鎮座しており、まるで沖縄の古民家の入り口を悪霊から守る「ヒンプン」のように見えます。ガマの内部には石垣で積まれた古い堀込墓が構えており、解放された墓門からは古墓の内部が確認出来ます。現在この古墓は既に墓じまいが済んでいますが、墓の内部には厨子甕の破片や昔の石や木材が数多く残されています。更に堀込墓の内部構造も綺麗に保存されており、沖縄の古墓の内部形状、使われた石材や加工技術などを解釈する為に非常に貴重な文化財となっています。(瀬名波ガー周辺の石切場)(瀬名波ガー周辺の洞窟群)(瀬名波ガー周辺の洞窟群内部)「瀬名波ガー」の南側の海岸線は自然海食した洞窟群が続いており、大小様々なガマが多数点在しています。この一帯の浜はかつて石切場として上質な石材が切り出されており、現在は石切場の跡が綺麗に残されています。おそらく、ここで切り出された石材は「イェーヌガマ」内部の風葬墓や堀込墓に使用されていたと考えられます。「瀬名波ガー」周辺の洞窟群は海岸線の南北に大規模に広がっています。沖縄戦の際にはこの洞窟群に「瀬名波集落」の人々のみならず、多くの周辺集落の住民が食料を持ち込み防空壕として避難し、近くの「瀬名波ガー」の湧き水を飲んで戦禍を生き延びたと伝わっています。(チーヤグヮー)(チーヤグヮーヌガジラーシー)「イェーヌガマ」から南東側の浜辺に「チーヤグヮー」と呼ばれる丘陵があり、その麓一帯は大きめの岩が大規模に渡り積み上げられています。「チーヤグヮー」の丘陵中腹にはムンチュー墓(門中墓)、亀甲墓、古い堀込墓など多種多様の沖縄の墓が集中しています。この「チーヤグヮー」の浜に「チーヤグヮーヌガジラーシー」と呼ばれる自然溶食により造り出された石灰岩があります。溶食とは石灰岩が海水と炭酸ガスの働きにより分解される化学的作用の事を言います。更に「ガジラーシー」とはキノコ型に溶食された岩の名称で、長い年月をかけて少しずつ現在の造形美を創り出しているのです。(瀬名波ガーヌガジラーシー)(飛び込み台とヌファイグムイ)「瀬名波ガー」から東側の浜に「瀬名波ガーヌガジラーシー」と呼ばれるキノコ型の溶食石灰岩があります。その脇に隣接して「飛び込み台」の型をした岩場と「ヌファイグムイ」と呼ばれる溜池があります。これからは神が宿るとされる「イビーヌメー」を取り囲むように位置しています。荒々しい岩場が多い地域で力強く生きてきた「瀬名波集落」の住民の精神を「瀬名波ガー」にかけて、次のような歌が謳われています。「シナハガーヌミジヤ イシカラガワチュラ イキガカライナグ クトゥバクファサ」(瀬名波ガーの水は 石から湧き出ているのだろうか 男も女も言葉遣いが荒いよ)