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2022.01.12
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カテゴリ:恩納村

(オシアゲ森/後ノ御嶽)

沖縄本島中部の西海岸にある「恩納村」に「山田グスク」があり、このグスクは標高約90mの琉球石灰岩台地に築かれた平山城です。「山田グスク」が築城された年数は不明ですが、うるま市にある「伊波グスク」の城主である「伊覇按司」から分家した家系で「護佐丸」の父祖以来が居城したグスクだと伝わります。「山田グスク」は古琉球の「三山時代」には「中山」勢力圏の北端に位置しており「北山」勢力圏との境界にあった重要なグスクで、更に「護佐丸」の最初の居城であったと言われています。


(久良波大主の墓)

(山田按司長男 亀千代/山田按司御娘 真音金の墓)

(オシアゲ森の麓にある拝所)

「山田グスク」の東側に隣接する丘陵は「琉球国由来記」(1713年)に「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」と記されている御嶽の森となっています。この丘陵の中腹にある鍾乳洞に「久良波大主(くらはうふぬし)の墓」があります。「山田グスク」がある土地は「古読谷山」と呼ばれ「山田村」と「久良波村」の2つの村がありました。この墓は「久良波村」の「大主」と呼ばれる「按司」の次に身分が高い有力者が葬られた古墓です。「久良波大主の墓」の隣には「山田按司長男 亀千代」「山田按司御娘 真音金」が合祀された墓がありウコール(香炉)が祀られています。


(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/左側)

(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/中央)

(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/右側)

「久良波大主の墓」に隣接する崖は3つの鍾乳洞が口を開けており、それぞれが洞窟を利用した古琉球様式の古墓となっています。洞穴の入り口は岩や石で塞がれておりウコール(香炉)が祀られています。右側の鍾乳洞穴には「山田按司 門口大和之墓」と記されています。中央の鍾乳洞も左側の鍾乳洞も各々「山田按司」家系の墓である事が考えられます。「久良波村」の「大主」が「山田按司」の一族と同じ「オシアゲ森」の麓に葬られている理由は、昔から「山田村」と「久良波村」の繋がりが強く「久良波大主」も「山田按司」一族も同じ「今帰仁」にルーツがある事だと考えられます。


(久良波大主の墓の標識がある分かれ道)

(オシアゲ森の拝所)

(オシアゲ森/後ノ御嶽)

「久良波大主の墓」がある丘陵は「オシアゲ森」と呼ばれる御嶽の森で、昔から「古読谷山(山田)村」では神が住む聖地として崇められていました。「久良波大主の墓」の標識がある地点は森道が二股に分かれており、左に進むと「久良波大主の墓」があり、右に進むと「石川高原展望台」に向かう山道が続きます。この地点を右に進んだ直ぐ左側に「オシアゲ森」の頂上に続く獣道があります。丘陵を登り始めると拝所のウコール(香炉)が現れ、更に急峻の険道を進むと「オシアゲ森」の頂上に建立された「後ノ御嶽」の祠が姿を見せます。この祠は「今帰仁」に向けられて建てられており「古読谷山(山田)村」から遠く離れた根源の土地である「今帰仁」を崇めた御嶽だと考えられます。


(後ノ御嶽の祠内部)

(後ノ御嶽の水鉢)

(オシアゲ森)

「オシアゲ森」の御嶽が「後ノ御嶽」と名が付いた理由は「山田村」の東側に「山田グスク」が構えており、この御嶽の森は「山田グスク」から更に東側に位置します。その為「山田村」から見てグスクの後ろ側にある事から「後ノ御嶽」の名前が由来したと考えられます。祠内部には1基の鉄製ウコール、2基の陶器製ウコール、1基の石製ウコール、さらに3体の霊石が祀られています。「オシアゲ森」の頂上にある祠までの隘路は普段から人が立ち入る痕跡が確認されず、この「後ノ御嶽」の祠は「山田グスク」に関する文献やSNS等にも一切紹介されていません。その為、この「後ノ御嶽」を多くの人々に伝える事が、今回私が「後ノ御嶽」に"呼ばれた"意味だと認識しています。


(遥拝嶽)

(遥拝嶽の祠内部)

(遥拝嶽の森)

「山田村」の北側に「遥拝嶽」があり、森の頂に構える祠は「今帰仁」の方角に向けて建立されています。「後ノ御嶽」は「山田ノロ(神人)」のみが立ち入る事が出来た特別な拝所で「オシアゲ森」の頂上から「今帰仁」を拝む聖地でした。その為「山田村」の一般住民は「オシアゲ森」から西側に離れた森の「遥拝嶽」から「今帰仁」を祈っていたと考えられます。遥拝所は「お通し」または「うとうし」と呼ばれ、遠く離れた場所から神を祈る事が出来る拝所の事を言います。「山田村」があった場所に実際に立つと、目の前に「山田グスク」の丘陵、その後ろに「今帰仁」方向の海が見える「オシアゲ森」あり、一般の村人が「今帰仁」方向の海を臨む事が出来る一番の高台が「遥拝嶽」の森になっている事が良く分かります。


(山田グスク中腹の護佐丸父祖の墓)

(護佐丸父祖の墓)

「山田グスク」の南側丘陵に「護佐丸父祖の墓」があり「山田グスク」城主であった護佐丸父祖一族の墓と言われています。琉球石灰岩洞穴を利用した古墓で、墓前には一族により建立された碑文の石碑があります。「護佐丸」を元祖とする琉球王国の士族である「毛氏豊見城」の子孫により建立された碑文には、墓の修復(1714年)や石碑の建立(1750年)などの内容が記されています。「護佐丸父祖の墓」には石造りのウコール(香炉)と花瓶が供えられ、現在でも「護佐丸」の子孫をはじめ多くの人々が拝みに訪れます。


(護佐丸父祖の墓の碑文)

(護佐丸父祖の墓の碑と鍾乳石灰岩)

〈碑文の表側〉
『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
まつる例となりぬ仍之石碑建之也 
大清乾隆五年庚申十月吉日 すふ裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之』

〈碑文の裏側〉
『此碑文康煕五十三年雖為建置
年来久敷文字不詳依之此節
建替仕也
書調人毛氏山内親方盛方
彫調人毛氏又吉里之子盛庸』


(琉球石灰岩のアーチ)

(護佐丸父祖一族の墓)

(豊見城家伊野波門中の修築記念)

「護佐丸父祖の墓」に向かって右側に「護佐丸父祖一族の墓」と思われる古墓があり、琉球石灰岩の表面には「一九五二年九月吉日 修築 豊見城家伊野波門中」と刻まれています。「豊見城家伊野波門中」は琉球王府の行政の最高責任者(三司官)を務めた「伊野波親方盛紀」(1619−1688年)を系祖とし、琉球王国の士族の末裔である「毛氏豊見城殿内」の門中の一つです。この「毛氏豊見城殿内」の始祖が「護佐丸」である事から、中城村の「中城グスク」から東側にある「台グスク(デーグスク)」の麓に「護佐丸の墓」が「毛氏豊見城家」により築かれています。


(山田グスク周辺の森)

古琉球の「三山時代」に中山との争いに敗れた北山の「今帰仁王子」が現在のうるま市伊波に逃れた後に勢力を拡大し「伊波グスク」を築城しました。その「伊覇按司(今帰仁王子)」と一族関係にあった先代「山田グスク」城主の「古読谷山(山田)按司」には後継ぎがいなかった為、兄弟であった「伊波グスク」3代目城主の次男である「護佐丸」が養子に迎えられ「古読谷山(山田)按司」の地位を継ぎました。「護佐丸」は1416年に「尚巴志」の北山討伐に参戦して北山を滅ぼした後に「山田グスク」から4キロほど西に離れた「座喜味グスク」を築城し居城しました。「座喜味グスク」を築く際には「山田グスク」の石垣を壊して人の手で運んだと伝わっています。「山田グスク」は恩納村に残るグスクの中で最も主要なグスクの1つとして国指定の遺跡文化財となっているのです。








最終更新日  2022.03.06 21:53:48
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