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カテゴリ:読谷村
(シナハウガン/崎原嶽) 沖縄本島中部西海岸の「読谷(よみたん)村」北部に「瀬名波(せなは)集落」があります。海岸沿いにあるこの集落は「読谷石灰岩」の地盤が広がっており「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれています。この名称は沖縄の言葉で"岩場が多い地域"という意味に由来しているそうです。「瀬名波集落」は読谷村で最も古い集落の一つとして歴史が長く、首里王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし(1531-1623年)」には「せなはかわひら(瀬名波川平)」や「せなはいしよひら(瀬名波磯坂)」と謳われているように「瀬名波ガー」と呼ばれる井泉がある「瀬名波海岸」に下りる美しい岩場の絶景が特徴的です。 (シナハウガン/崎原嶽の祠内部) (シナハウガン/瀬名波ウガンの遥拝所) 「瀬名波集落」の北側に「シナハウガン/瀬名波ウガン」という御嶽の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「崎原嶽」と記されており、集落の大御願やフトゥチウガン(解き御願)の際に拝されています。戦前は集落の出征兵士が戦場に赴く前に「シナハウガン」で武運長久を祈願しました。また、本土へ旅立つ人が乗った船が集落の沖合に通りかかると、焚き火をして舟送りをする場でもありました。「シナハウガン」のイビである祠内部には幾つもの古いビジュル(霊石)が祀られており、現在でもヒラウコー(沖縄線香)をお供えして御願する人々が多数訪れます。さらに、御嶽の森の麓には高齢者や足が悪い方が御願する為の「遥拝所」が設けられています。 (按司墓跡之碑) (カクリグシク) (カクリグシクの按司墓) 「シナハウガン/崎原嶽」の南側に「カクリグシク」と呼ばれるグスクの岩山があり、丘陵中腹の洞穴に「按司墓」が存在します。戦乱の時代に、ある按司がこの地まで逃れて来て亡くなったと伝わっています。この「按司墓」は集落の「シーミー(清明祭)」の時に拝されており、現在は「シナハウガン」の遥拝所に「按司墓跡之碑」と彫られた石碑が建立しています。古墓を由来とする「カクリグシク」は別名「シナハグシク(瀬名波グスク)」と称され、民俗学者の「仲松弥秀(なかまつやしゅう)」によるとグシクは『石垣に囲まれ、神が存在、または天降る聖所で、神を礼拝する拝所と一つにした聖域である』と定義しています。 (イユミーバンタ) (ムイヌカーヌガジラーシー) (スーキ屋敷跡) 「瀬名波集落」最北端は海に向かって断崖絶壁になっており、この崖の上は「イユミーバンタ」と呼ばれる魚の群れを発見する場所でした。「イユミーバンタ」から南側の崖下には「ムイヌカーヌガジラーシー」と呼ばれる溶食により特徴的な形をした岩礁があります。この名称の由来となった「ムイヌカー」と呼ばれる井泉がこの崖下にあり、かつて戦に逃れた按司が井泉の水を飲み命を繋いだと伝わっています。それに乗じて井泉は「ウムイヌカー(思いのカー)」とも呼ばれています。なお、この按司は「カクリグシク」の「按司墓」に葬られている同一人物だとされています。「イユミーバンタ」の南西側には「スーキ屋敷跡」と呼ばれる場所があり「スーキ」と呼ばれるモンパの木と共に屋敷跡が残されています。 (カガンジウタキ/カガミ瀬嶽) (カガンジウタキ/カガミ瀬嶽の祠内部) 「瀬名波集落」中央部の「カガンジバル(鏡池原)」に「カガンジウタキ/カガミ瀬嶽」と呼ばれる御嶽があり「カガンジヌウカミ」や「鏡地御嶽」とも呼ばれています。「琉球国由来記(1713年)」には「カガミ瀬嶽/神名:テルカガミノ御イベ」と記されており「瀬名波ノロ」が祭祀を司る拝所として崇められていました。「カガンジウタキ」の祠内部には複数のウコール(香炉)と霊石が祀られており、前庭には石製の丸柱や四角柱が3本立っています。集落の大御願、フトゥチウガン、ウマチー(旧暦2月、3月、5月、6月)などで拝され、御嶽の木陰は「瀬名波ノロ」が休憩する場所でもありました。 (ジュリグヮーシー) (チンガー) 「カガンジウタキ」の北側に「ジュリグヮーシー」と呼ばれる「瀬名波集落」に伝わる伝説の場所があります。「カクリグシク」に身を隠す按司を討ち取る為に追手が迫っている危機を事前に聞いた「ジュリ」という遊女が、按司にその事を知らせようとしました。しかし「ジュリ」は追手にこの場所で殺されてしまいます。それからこの場所は霊力が高く、昼間でも三線の音色が聴こえてくるとして人々に恐れられました。「ジュリグヮーシー」の南側に「チンガー」と呼ばれる掘り抜き鶴瓶井戸があります。戦前まで「瀬名波集落」の共同井戸として飲料水や生活用水に重宝されました。現在は水の恩に感謝して大御願やフトゥチウガンで拝されています。 (コーチンダ道) (コーチンダ道の岩塊) (コーチンダ道の亀甲墓) 「ジュリグヮーシー」の東側に「コーチンダ道」と呼ばれる森道があり、かつて「コーチンダバーマ」と呼ばれる珊瑚礁の浅瀬まで続いていました。「コーチンダ道」を進むと琉球石灰岩が隆起した岩塊があり、麓には地中に向けて洞窟が続いています。この岩塊は「コーチンダ道」の森を守護する御嶽のイビであるとも考えられますが詳細は不明です。さらに森道を進むと「亀甲墓」の古墓が現れました。門石(じょういし)の前には花瓶があり花が供えられ、向かって左手の角にウチカビ(あの世のお金)を燃やすカビアンジ(焚き上げ)の器が置かれています。「コーチンダ道」は現在も「瀬名波集落」の歴史の道として大切に残されているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.12 21:16:00
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