パワースポット@神の島「Okinawa」

2022/11/12(土)21:12

ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン@那覇市「チャナザチバシ/サシケーシバシ」

那覇市(3)

(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所) 沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。 (チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所) (現在の真嘉比川に架かる橋) 現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。 (真嘉比川に架かる橋の北側) (真嘉比川に架かる橋の南側) 「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。 (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所) (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑) (チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑) その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。 (現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板) (現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはし) (現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板) 「チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡」の直ぐ南側に同じ「真嘉比川」に架かる橋があり、この橋には現在「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」という名称が付けられています。1945年(昭和20)の沖縄戦の後「松川集落」は道路整備に伴い、元の「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の道は旧道となり橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年/昭和8に廃止)が新たな県道となりました。更に川筋も変えられて新しい道路も造られた事から、1953年に橋の位置も移動して新たな「茶湯崎橋/ちゃゆざきばし」が竣工されました。この橋の名称が刻まれた石版は橋が建築された当時のままで、那覇市歴史博物館の写真資料では彫られた橋の名称が当初は黒く塗られていた事が確認出来ます。 (現在の指帰橋) (現在の指帰橋の橋名板) (現在の指帰橋/安里川/真嘉比川) 「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」の南側で安里川と真嘉比川が合流する地点に「指帰橋/さしかえしはし」が架かっています。この橋の名称はかつて琉球王国時代に、この土地に実際にあった「指帰橋/サシケーシバシ」から受け継がれたもので、首里の儀保や山川を水源とする「真嘉比川」と首里の崎山や金城の周辺を水源とする「金城川」が合流し「安里川」の本流となる首里坂下に架設された橋です。造られた当初は木橋は近世になり石橋に改築され、現在は坂下上り口の元国道の地下に埋設されています。明治末期発行の「大日本地名辞書/第八巻」には『指帰橋は首里坂下安里川の交流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故になづく』と記されています。 (現在のさしかえしはしの橋名板) (真嘉比川と安里川の合流地点) (指帰橋の安里川の名板) 新訳「球陽外巻/遺老説伝」第19話に「指帰橋」が次のように記されています。 『遠い昔の時代、小橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋さしけーしばし/さしかえしばし」といいます。』

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