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パワースポット@神の島「Okinawa」

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全3件 (3件中 1-3件目)

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恩納村

2022.01.14
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カテゴリ:恩納村

(国頭方西海道/山田谷川方面出入口)

「国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)」は琉球王国時代に、琉球王府により築かれた古街道です。首里を拠点に浦添山を通り、沖縄本島北部の国頭方面に続く「宿道(すくみち)」と呼ばれる街道です。琉球王国時代に整備された主要道は宿道(すくみち)と呼ばれ、沖縄本島西側を通る「中頭方西海道」「国頭方西海道」と東側を通る「中頭方東海道」「国頭方東海道」の4つの街道があります。恩納村山田の国道58号線から「山田グスク」に向かう場所に「山田谷川方面出入口」があり、歴史の深い「国頭方西方海道」が今日も現存しています。


(山田谷川方面出入口の井戸)

(山田谷川方面出入口の古井戸)

「国頭方西方海道」の「山田谷川方面出入口」に4つの井戸があります。屋根付きの3つの井戸は左から「東大井戸」「久良波大主の井戸」「大木の井戸」があります。これらの井戸は1975年に本部町で開催された「沖縄国際海洋博覧会」の際、国道58号線の新装工事を行った為にこの地に移転されました。中央の「久良波大主の井戸」と右側の「大木の井戸」にはウコール(香炉)が祀られており、3つの井戸にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この合祀された井戸の脇には、昔からこの場にあったと考えられる古井戸が現存しています。


(山田谷川の石畳道)

(山田谷川の石矼)

(山田谷川の石矼と石畳道)

「国頭方西方海道」の山道を南側に進むと「山田グスク」北側の崖下に「山田谷川(さくがわ)の石矼」があります。「山田村」を横断する「山田谷川」は別名「ヤーガー」とも呼ばれています。この石矼は「ヤーガー」に架かっており、琉球石灰岩の野面(のづら)積みの桁の支えに中央部がせり上がったアーチ型の石矼を施しています。アーチ型にする事により石矼の強度が増す工法で、琉球王国時代の石矼造りの技術の高さが分かります。現在の石矼はこれまでにアーチ部分の6枚の石が崩れ落ちていた為、1989年(平成元年)に現在の姿に修復されています。


(ヤーガーの水浴場)

(水浴場周辺の琉球石灰岩)

(水浴場から石矼に通じる岩間の通路)

「山田谷川の石矼」の東側に奥まった場所に、山手に通じる岩間の通路があります。この細い通路を抜けると「ヤーガーの水浴場」が佇んでいます。この地点では「ヤーガー」は鍾乳洞窟の奥地から流れ出ており、洞窟の入口には流れが緩やかな水浴場となっています。「山田村」の住民の隠れた聖地として昔から人々に親しまれてきました。現在「ヤーガーの水浴場」にはウコール(香炉)が設置され、水の神様を祀る拝所となっています。この鍾乳洞窟から湧き出す水は、琉球石灰岩の細い岩間を通り抜け「山田谷川の石矼」の下を流れて行きます。


(山田谷川の石矼の南側にある標識)

(国頭方西方海道)

(クシヌカー/後川)

「ヤーガーの水浴場」の地にまつわる次のような琉歌が残されています。『山田谷川に思蔵つれて浴みて 恋しかたらたる仲のあしゃぎ』(訳 : 愛しい人と共に山田谷川で水を浴びて 仲の館で恋を語り合いたいものだ) 「山田谷川の石矼」の南側から「国頭方西方海道」は「山田グスク」西側の麓を通って行きます。しばらく進むと左手に「クシヌカー(後川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井泉があります。「山田グスク」の丘陵から滲み出る水で「山田村」の貴重な水源として重宝されました。現在はウコール(香炉)が設置され、水の神様を崇める拝所となっています。


(神アシャギ)

(神アシャギの祠内部)

「山田グスク」西側の麓に「神アシャギ」があり、祠内部には幾つもの霊石が祀られています。「神アサギ」とも呼ばれ、ノロ(祝女)が集落の祭祀を行う場所を言います。「山田ノロ」の管轄は「山田村」「久良波村」「冨着村」で、稲大祭のときに「山田ノロ」が「富着村」から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告を「山田グスク」「護佐丸先祖の墓」「殿内小」で御願(ウガン)をし、その後「神アシャギ」で村人の歓待を受けたと言われています。また、大正時代まではノロ、若ノロを含めて7人の「山田ノロ」が存在したと伝わっています。


(山田グスクの石垣)

(国頭方西方海道の石垣)

かつて「山田グスク」の麓にあった「山田村」には「ノロ殿内(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチ)」と呼ばれる「山田ノロ」が暮らした住居がありました。その「ノロ殿内」は海に近い現在の恩納村山田に移動し、敷地内の「神屋(カミヤー)」と呼ばれる建物には「くらはぬるこもひ」と記された位牌があります。「山田ノロ」は「琉球国由来記(1713年)」には「山田巫」と記載されており、更に「山田ノロ」が「久良波村」と関わりがあった次の謡があります。『入るや入るや居しが出る人居らぬ 久良波ノンドンチ不審どころ』この他にも「久良波ノンドンチ」を「首里殿内」に言い換えた謡も残されています。


(ウブガー/産川)

(ウブガーの拝所)

「山田グスク」の麓を通る「国頭方西方海道」は「山田村」を囲むように西側に続いて行きます。「山田村」の南側に「ウブガー(産川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井戸があります。この井戸に隣接して石造りの祠が建てられており、ウコール(香炉)が祀られ水の恵みに感謝する拝所となっています。村で子供が産まれた時に「ウブガー」の水をウブミジ(産水)に使用し、汲んだ井戸の水に中指を浸して、おでこを3回撫でる「ウビナディ」で赤ちゃんの健康を祈願しました。また、正月には若水を汲み茶を沸かして飲んで新年の無病息災を祈りました。


(メーガー/前川)

(現存する国頭方西方海道の出入口)

(歴史の道/文部科学省の境界標識)

「山田グスク」の南側に「メーガー(前川)」と呼ばれる井戸があり、グスク南側の「護佐丸父祖の墓」の丘陵から滲み出た水が「メーガー」から湧き出ていたと考えられます。この周辺ほ水が豊富で水田による農業が盛んに行われていました。「山田グスク」周辺に琉球王国時代から現存する「国頭方西方海道」は「山田谷川方面出入口」から「山田村」の南側まで残されており「歴史の道」として文部科学省の境界標識が幾つも設置されています。「護佐丸」や琉球王国時代の人々が利用していた悠久の宿道は、ロマンと歴史が溢れる古街道となっているのです。








最終更新日  2022.03.06 21:53:13


2022.01.12
カテゴリ:恩納村

(オシアゲ森/後ノ御嶽)

沖縄本島中部の西海岸にある「恩納村」に「山田グスク」があり、このグスクは標高約90mの琉球石灰岩台地に築かれた平山城です。「山田グスク」が築城された年数は不明ですが、うるま市にある「伊波グスク」の城主である「伊覇按司」から分家した家系で「護佐丸」の父祖以来が居城したグスクだと伝わります。「山田グスク」は古琉球の「三山時代」には「中山」勢力圏の北端に位置しており「北山」勢力圏との境界にあった重要なグスクで、更に「護佐丸」の最初の居城であったと言われています。


(久良波大主の墓)

(山田按司長男 亀千代/山田按司御娘 真音金の墓)

(オシアゲ森の麓にある拝所)

「山田グスク」の東側に隣接する丘陵は「琉球国由来記」(1713年)に「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」と記されている御嶽の森となっています。この丘陵の中腹にある鍾乳洞に「久良波大主(くらはうふぬし)の墓」があります。「山田グスク」がある土地は「古読谷山」と呼ばれ「山田村」と「久良波村」の2つの村がありました。この墓は「久良波村」の「大主」と呼ばれる「按司」の次に身分が高い有力者が葬られた古墓です。「久良波大主の墓」の隣には「山田按司長男 亀千代」「山田按司御娘 真音金」が合祀された墓がありウコール(香炉)が祀られています。


(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/左側)

(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/中央)

(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/右側)

「久良波大主の墓」に隣接する崖は3つの鍾乳洞が口を開けており、それぞれが洞窟を利用した古琉球様式の古墓となっています。洞穴の入り口は岩や石で塞がれておりウコール(香炉)が祀られています。右側の鍾乳洞穴には「山田按司 門口大和之墓」と記されています。中央の鍾乳洞も左側の鍾乳洞も各々「山田按司」家系の墓である事が考えられます。「久良波村」の「大主」が「山田按司」の一族と同じ「オシアゲ森」の麓に葬られている理由は、昔から「山田村」と「久良波村」の繋がりが強く「久良波大主」も「山田按司」一族も同じ「今帰仁」にルーツがある事だと考えられます。


(久良波大主の墓の標識がある分かれ道)

(オシアゲ森の拝所)

(オシアゲ森/後ノ御嶽)

「久良波大主の墓」がある丘陵は「オシアゲ森」と呼ばれる御嶽の森で、昔から「古読谷山(山田)村」では神が住む聖地として崇められていました。「久良波大主の墓」の標識がある地点は森道が二股に分かれており、左に進むと「久良波大主の墓」があり、右に進むと「石川高原展望台」に向かう山道が続きます。この地点を右に進んだ直ぐ左側に「オシアゲ森」の頂上に続く獣道があります。丘陵を登り始めると拝所のウコール(香炉)が現れ、更に急峻の険道を進むと「オシアゲ森」の頂上に建立された「後ノ御嶽」の祠が姿を見せます。この祠は「今帰仁」に向けられて建てられており「古読谷山(山田)村」から遠く離れた根源の土地である「今帰仁」を崇めた御嶽だと考えられます。


(後ノ御嶽の祠内部)

(後ノ御嶽の水鉢)

(オシアゲ森)

「オシアゲ森」の御嶽が「後ノ御嶽」と名が付いた理由は「山田村」の東側に「山田グスク」が構えており、この御嶽の森は「山田グスク」から更に東側に位置します。その為「山田村」から見てグスクの後ろ側にある事から「後ノ御嶽」の名前が由来したと考えられます。祠内部には1基の鉄製ウコール、2基の陶器製ウコール、1基の石製ウコール、さらに3体の霊石が祀られています。「オシアゲ森」の頂上にある祠までの隘路は普段から人が立ち入る痕跡が確認されず、この「後ノ御嶽」の祠は「山田グスク」に関する文献やSNS等にも一切紹介されていません。その為、この「後ノ御嶽」を多くの人々に伝える事が、今回私が「後ノ御嶽」に"呼ばれた"意味だと認識しています。


(遥拝嶽)

(遥拝嶽の祠内部)

(遥拝嶽の森)

「山田村」の北側に「遥拝嶽」があり、森の頂に構える祠は「今帰仁」の方角に向けて建立されています。「後ノ御嶽」は「山田ノロ(神人)」のみが立ち入る事が出来た特別な拝所で「オシアゲ森」の頂上から「今帰仁」を拝む聖地でした。その為「山田村」の一般住民は「オシアゲ森」から西側に離れた森の「遥拝嶽」から「今帰仁」を祈っていたと考えられます。遥拝所は「お通し」または「うとうし」と呼ばれ、遠く離れた場所から神を祈る事が出来る拝所の事を言います。「山田村」があった場所に実際に立つと、目の前に「山田グスク」の丘陵、その後ろに「今帰仁」方向の海が見える「オシアゲ森」あり、一般の村人が「今帰仁」方向の海を臨む事が出来る一番の高台が「遥拝嶽」の森になっている事が良く分かります。


(山田グスク中腹の護佐丸父祖の墓)

(護佐丸父祖の墓)

「山田グスク」の南側丘陵に「護佐丸父祖の墓」があり「山田グスク」城主であった護佐丸父祖一族の墓と言われています。琉球石灰岩洞穴を利用した古墓で、墓前には一族により建立された碑文の石碑があります。「護佐丸」を元祖とする琉球王国の士族である「毛氏豊見城」の子孫により建立された碑文には、墓の修復(1714年)や石碑の建立(1750年)などの内容が記されています。「護佐丸父祖の墓」には石造りのウコール(香炉)と花瓶が供えられ、現在でも「護佐丸」の子孫をはじめ多くの人々が拝みに訪れます。


(護佐丸父祖の墓の碑文)

(護佐丸父祖の墓の碑と鍾乳石灰岩)

〈碑文の表側〉
『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ
居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に
幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり
爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて
永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけ
まつる例となりぬ仍之石碑建之也 
大清乾隆五年庚申十月吉日 すふ裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之』

〈碑文の裏側〉
『此碑文康煕五十三年雖為建置
年来久敷文字不詳依之此節
建替仕也
書調人毛氏山内親方盛方
彫調人毛氏又吉里之子盛庸』


(琉球石灰岩のアーチ)

(護佐丸父祖一族の墓)

(豊見城家伊野波門中の修築記念)

「護佐丸父祖の墓」に向かって右側に「護佐丸父祖一族の墓」と思われる古墓があり、琉球石灰岩の表面には「一九五二年九月吉日 修築 豊見城家伊野波門中」と刻まれています。「豊見城家伊野波門中」は琉球王府の行政の最高責任者(三司官)を務めた「伊野波親方盛紀」(1619−1688年)を系祖とし、琉球王国の士族の末裔である「毛氏豊見城殿内」の門中の一つです。この「毛氏豊見城殿内」の始祖が「護佐丸」である事から、中城村の「中城グスク」から東側にある「台グスク(デーグスク)」の麓に「護佐丸の墓」が「毛氏豊見城家」により築かれています。


(山田グスク周辺の森)

古琉球の「三山時代」に中山との争いに敗れた北山の「今帰仁王子」が現在のうるま市伊波に逃れた後に勢力を拡大し「伊波グスク」を築城しました。その「伊覇按司(今帰仁王子)」と一族関係にあった先代「山田グスク」城主の「古読谷山(山田)按司」には後継ぎがいなかった為、兄弟であった「伊波グスク」3代目城主の次男である「護佐丸」が養子に迎えられ「古読谷山(山田)按司」の地位を継ぎました。「護佐丸」は1416年に「尚巴志」の北山討伐に参戦して北山を滅ぼした後に「山田グスク」から4キロほど西に離れた「座喜味グスク」を築城し居城しました。「座喜味グスク」を築く際には「山田グスク」の石垣を壊して人の手で運んだと伝わっています。「山田グスク」は恩納村に残るグスクの中で最も主要なグスクの1つとして国指定の遺跡文化財となっているのです。








最終更新日  2022.03.06 21:53:48
2021.10.05
カテゴリ:恩納村

(琉歌の里恩納の石碑/万座毛第二駐車場)

沖縄本島北部西海岸にある「恩納村」に生まれた女流歌人「恩納ナビー」は18世紀初め頃、琉歌歌人として活躍した女性です。「恩納ナビー」が生きていた時代は琉球文化の黄金時代と呼ばれ文学、音楽、舞踊と一流の文化人が輩出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。「恩納村」の美しい自然の中「恩納ナビー」は自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したのです。


(恩納ナビーの歌碑)

「恩納ナビー(恩納なべ)」が生まれたのは1660年頃だと推測され、自然の美しさに恵まれ神々、木、森の精たちと語らいながら成長したと伝えられています。万座毛第二駐車場に「恩納ナビーの歌碑」があります。

「恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがさなたな」

(恩納岳の彼方には 我が愛する人の故郷がある その山をも押しのけて 引き寄せたい)


(恩納奈邊記念碑/表面/万座毛周辺活性化施設)

(恩納奈邊記念碑/裏面/万座毛周辺活性化施設)

「恩納ナビー」が万座毛に残した輝かしい琉歌の世界に沖縄の文化史を誇りとし「奈邊(ナビー)」の歌碑を御即位記念として、万座毛入り口に昭和3年11月10日に石碑が建立されました。現在は万座毛周辺活性化施設の新設に伴い施設内に移設されました。「恩納村」の人々は沖縄の三大女流歌人と言われる「恩納ナビー」の歌を愛し「恩納村」の誇りとして、後世に伝えるために「恩納奈邊記念碑」が建立されたのです。


(恩納ナビーの歌碑/万座毛周辺活性化施設)

(万座毛/沖縄県指定天然記念物)

2020年10月にオープンした「万座毛周辺活性化施設」に「恩納ナビーの歌碑」があります。この歌碑は昭和3年の建立後に50周年を祈念して、昭和54年に新しく建立されました。1726(享保11)年に琉球王府「尚敬王」自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ各重臣臣下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に「恩納ナビー」が詠んだ歌です。

「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」

(波も風も穏やかになってほしい はるばる国王が万座毛に立ち寄られるのだから その顔は拝みたいものだ)


(恩納ナビー生誕屋敷跡)

(カンジャガー)

「恩納集落」の西側にマッコウ屋(屋号)と言われる「恩納ナビー生誕屋敷跡」があります。「恩納ナビー」は兄1人に女1人として生まれました。屋敷は現在空き地になっていますが「恩納ナビー生誕の地」の石碑が建立されています。屋敷の東側に「恩納村」の指定文化財に登録される「カンジャガー」と呼ばれるウブガー(産井)の拝所があり、昔近くに鍛冶屋があったことが名前の由来となっています。産湯水や新生児の健康祈願(ミジナディ)の為に額につける水を汲む井戸で、正月1日に村人が井泉に感謝を込めて初御願に拝します。


(神アサギ)

(根神火神)

「恩納集落」中央の恩納公民館の敷地内に「神アサギ」があります。この「神アサギ」は昔から現在地にあり、ノロ(祝女)により集落の神事を司る重要な建物です。昔から茅葺屋根は数年おきに集落の住民総出で葺き替え続けられています。また、公民館の敷地内東側に「根神火神」の拝所が祀られています。祠内には霊石が設置されており、集落の住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願う「火の神」として崇められています。


(恩納番所跡の拝所)

(拝所内部/向かって右側)

(拝所内部/向かって左側)

「恩納集落」の北側に「恩納番所跡」があり敷地内には拝所が建立されています。番所とは間切の役場の事を言います。恩納間切は1673年(尚貞5年)に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、この地に番所が置かれました。1853(嘉永6)年にはベリー一行も訪れ「恩納村」の美しさについて書き記しています。「恩納番所跡」は1882(明治15)年の恩納村における教育発祥の地でもあります。現在は拝所が設けられ火の神にウコール(香炉)と霊石が祀られています。


(恩納松下の歌碑/表面)

(恩納松下の歌碑/裏面)

その昔「恩納番所」の近くに松の大樹があり、その下には村人への伝言用立て札が立てられていました。尚敬王時代(1713〜1751年)の冊封副使徐葆光(じょほうこう)一行が北部の名称巡りの途中「恩納番所」で一晩宿を取ることになりました。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び(もーあしびー)」や「しぬぐ」など盛んに行われており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人らしい発想から、風俗取り締まりの立て札が立てられたのです。


(恩納松下の歌碑)

その立て札を見た「恩納ナビー」はいささか皮肉を込めて次の歌を詠みました。

「恩納松下に 禁止の碑の立ちゅし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」

(恩納番所前の松の下に 禁止の立札があるが 恋をすることまで 禁止しているのではあるまい)

番所前の松の木は、戦後まで豊かな枝振りで緑陰をつくっていましたが、1955(昭和30)年に松食い虫の被害により枯れてしまい切り株のみ残されています。現在の松の木は2代目の松の木で「恩納松下の歌碑」の脇に植えられています。


(恩納ナビ伝/上間繁市著)

上間繁市著の「恩納ナビ伝」によると「恩納ナビー」の没年は不明ですが「恩納ナビー生誕屋敷(マッコウ屋)」の隣の島袋屋(しまぶくや)の娘であった「伊波マツ」さん老女の話では「ナビ女の晩年は一人暮らしで、老いた身でおりおり海漁りをしていた」という言い伝えを幼少の頃に聞いていたそうです。「恩納ナビー」はかなりの歳まで生き永らえていたと推察されます。


(デース/墓地帯)

(恩納ナビーの墓)

「恩納ナビー」を埋葬している墓は「恩納集落」の俗称「デース」と呼ばれる墓地帯で、海を前にした小高い雑木林の中にあります。1660年代の古い墓で集落で言う「模合墓」で、幾人かで組合を作り均一の金銭と労力を出し合い建造する墓を意味します。その組合員の親族のみを埋葬した「模合墓」に「恩納ナビー」が埋葬されています。上間繁市著の「恩納ナビ伝」には、この掘り込み式の墓と内部の骨壷の写真も掲載されており、現在はウコール(香炉)、湯呑み、花瓶が設置されており集落の住民により祈られています。


(厳谷小波句碑/恩納ナビーの歌碑)

(恩納ナビーの歌碑)

「恩納ナビー」は田舎乙女として水呑み百姓の貧しい家庭に育ち、当時の封建社会の厳しい時代で庶民の自由を熱望する気持ちを人一倍持っていました。「恩納ナビー」は琉球王府の布令規則などに真正面から反抗することなく、平易な言葉で自分の気持ちを正直に表現しています。「恩納ナビー」には万葉の秀歌にも劣らない歌が18首あるとされており、その中には琉球古典音楽や舞踊で今日、なお厳然として受け継がれ生き続けているのは確かな事実なのです。







最終更新日  2022.03.06 23:06:52

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