健堅大親の墓とアメラグスクの屋敷跡@本部町「健堅之比屋御墓所/御屋敷跡/ニーヌファ」
(健堅大親の墓/健堅之比屋御墓所)沖縄本島北部「本部町」の西側で「瀬底島」の東側に「健堅/けんけん集落」があります。この集落は沖縄の方言で「キンキン」と呼ばれており、国道449号(本部町南道路)の「瀬底大橋」の入り口付近に「健堅大親の墓」があります。この墓は「健堅之比屋御墓」や「キンキンヌヒャーの墓」とも言われています。この墓がある「健堅集落」は琉球王府時代からの古い村で、1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切より伊野波間切を創設した際の11村の内の1つとなっています。また、本部町で最初に文献に出てくるのが「健堅大親/キンキンウフヤ」で、琉球の正史と言われている「球陽」巻一察度45年(1394年)の条には『本部郡健堅大親給馬中華人似蒙招撫/もとぶぐんきんきんうふやうまをちゅうかじんにきゅうしもってしょうぶをこうむる』と記されています。(健堅大親の墓への階段)(健堅大親の墓のウコール)(健堅大親の墓の石碑)「久米島」の「堂之大親/どうぬうふや」と親交を結んでいた「健堅大親」が島を訪れた際、暴風の悪天候で漂流した中華人を「健堅村」に連れ帰り、中国に帰る為の船と良馬を与えた事から、中国の皇帝は琉球王国を通じて神に奉献する幣帛(へいはく)と石碑を贈り褒賞したとの記述が「球陽」に残されています。ちなみに、この文献から中国貿易が行われていた「察度王代」の14世紀末には、琉球には相当な数の集落が形成されていたと考えられます。「健堅大親」の墓がある丘陵一帯は「駈ヶ原/カキバル」と呼ばれており、この名称は「健堅大親」が中華人に馬を与えた事に由来していると伝わっています。この墓のウコール(香炉)には『奉納 鳳姓一門』と刻まれており、石碑には『鳳姓元祖 父 松寿 五十三才 健堅比屋御墓所 明治三十六年吉日 幼名 次郎 同年迠三百六十二年 次男 亀寿』と彫られています。(健堅集落の古島周辺)(アメラグスク)(アメラグスク/健堅之比屋御屋敷跡の入り口)(健堅之比屋御屋敷跡/井戸跡)「健堅集落」の主要な拝所がある「ウインバーリ/上バーリ」の北東側約700メートルの位置は集落の「フルジマ/古島」と呼ばれています。古老の話によると「健堅村」は北側に隣接する「辺名地」から移動し「ヒナンジャー/辺名地川」(大小堀川上流)南側の大地に集落を形成したと言われています。この「フルジマ」には「健堅大親」の屋敷跡や井泉がありましたが「ベルビーチゴルフクラブ」の建設により、現在は拝所として「アメラグスク」に移設され祭祀の対象となっています。「健堅集落」の北側にある「アメラグスク」は標高50〜60メートルの丘陵上にあり、石垣遺構などは確認されておらずグスクの調査が困難となっています。しかし「アメラグスク」は海や船舶の管理や監視の為に築造されたと言われており、12〜13世紀に「今帰仁グスク」が築城された為に途中で放棄されたグスクであると伝わっています。(アメラグスク拝所)(アメラグスク拝所の石碑)(アメラグスク拝所の祠内部)(健堅之比屋御屋敷跡の石碑)(健堅之比屋御屋敷跡/移設された井戸跡)「アメラグスク」の西側にはグスクの入り口があり、階段を登ると「アメラグスク拝所」があります。拝所の石碑には『アメラグスク拝所 建立 平成十一年二月十日 旧十二月二十四日』と刻まれています。拝所の祠内部には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに、この拝所の敷地には「フルジマ」から「健堅大親」の屋敷跡と井戸跡が移設されており、石碑には『健堅之比屋御屋敷跡 拝所』と彫られており、石碑には向かって左側には井戸跡と『鳳姓健堅御屋敷』と記されたウコールが設置されています。「健堅村」は本部間切の「名島/なじま」と呼ばれる一村で、地頭代(地頭の代官)として地方行政を担当した人物は「キンキンヌペーチン/健堅親雲上」と呼ばれていました。地頭代職を務めた家は現在でも「キンキンヤー/健堅屋」と言われています。(ニーヌファ/子の方)(ニーヌファの神屋内部)(ニーヌファのウコール)(ニーヌファのヒヌカン)「健堅集落」の東側に航海安全を祈る「ニーヌファ/子の方」と呼ばれる拝所があります。女神が祀られていると言われている「ニーヌファ」は旧暦の7月19日〜24日に執り行われる集落の年中行事である「シヌグイ」で拝されています。最終日の24日に実施される「ウワイシヌグ」では、まず最初に「ニーヌファ」の拝所に行きます。神屋では神役の「ニガミ/根神」が3基のウコールに2ヒラ(1ヒラは6本)づつのウコー(御香/沖縄線香)を立てます。次に共に参加する一般の婦人達も各々2ヒラを「ニガミ」に手渡しウコールに立ててもらいます。その後「ニガミ」を中心にして全員で手を合わせます。「ニーヌファ」に祀られている2基のウコールには、それぞれ『村元根神支』『如女神支』と記されており「ヒヌカン/火の神」の丸型のウコールには『国火山岳』と彫られています。(シジマ乙樽本墓)(竜宮神/お宮の鳥居)(竜宮神/お宮)(竜宮神/お宮の拝所)(竜宮神/お宮の拝所)「健堅大親の墓」の北東側約100メートルの海岸沿いに「シジマ乙樽本墓」と記された石碑と墓があり、2基のウコールと花瓶が設置されています。三山時代に今帰仁グスクの南側に「志慶真村/シジマムラ」という集落があり「乙樽/ウトゥダル」という絶世の美女がいました。神様のように気高い「乙樽」は「今帰仁御神/ナキジンウカミ」と呼ばれていました。時の今帰仁の主(王様)は「乙樽」を城内に召し上げて寵愛し、王妃が産んだ今帰仁王子を「乙樽」は我が子のように可愛がったと伝わっています。さらに「健堅集落」の東側にある「浜崎漁港」には航海安全と豊漁を祈る「竜宮神」の拝所があり、住民からは「お宮」の名称で親しまれています。「崎浜漁港」は古くから中国や薩摩への船が停泊した場所で、漁港の入江や大小堀川の河口は「ヤンバル船/山原船」が出入りした津(港)として知られて賑わっていました。