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カテゴリ:短編 05 『聖女のFと、姫君のD!』
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《D》については短編の02と03を参照。番外としてはこちらから 登場人物一覧はこちらから ――――― 注意! これは《中編》です。《前編》含むあらすじは短編05からどうぞ。 ――――― 10月10日――午後16時。 楢本ヒカルは"聖地"の入口に佇んで、その向こうに広がる景色を眺めていた。 ……ああっ、そんなっ……信じられない。こんなこと……信じられない。 広大な芝生の中央では、何十人もの人々が倒れて地に伏せている。男も女も年齢も関係 ない。泣き叫ぶ子供もいれば、ピクリとも動かない老婆もいる。そのさらに中心には、鉄 の棒を持ち、黒いスーツを着た集団がいた。 ヒカルが駆け寄ろうとする直前に、それを察知したかのように――隣に立つ男が彼女の 腕を掴んだ。腕から背、背から脳へ、冷たい戦慄が走り抜けた。 「……忠告はする。ヤメておけ」 確か――鮫島とか呼ばれていた男は、振り向いた女の目を見て力を強めた。「あそこに 行けば、お前は死ぬ。お前の周りも死ぬ……諦めろ」 「そんな……それじゃあ……誰も……」 ヒカルは既に泣いていた。温かい涙がとめどなく流れ落ち、頬や首筋を伝って肌を濡ら し、激しい吐き気が胸を襲った。 見られたくはなかった。鮫島にも、川澄にも、宮間とかいう女にも、京子様に対しても さえ――見られたくはなかった。見られたくはなかったのに、涙が止まらなくなっていた。 「……別にいいんじゃないスか? 死ぬワケじゃあないんでしょ?」 まるで私に"生贄"になれと言わんばかりの口調で川澄が言う。この男の考えていること だけは本当にわからないことばかりだ。 「お前は黙っていろ……川澄。……アンタも、変な気は起こさないほうがいい。"アレ"は ……危険だ」 鮫島が繰り返した。 「でもっ……でもっ……」 恐怖に震えながらヒカルは身をよじり、男の腕を振り払おうとした。田中にロープで縛 られた痕がヒリヒリと痛んだ。 「あーあっ、早く助けに行かないとー……宇津木さんが死んじゃうなあーっ」 わざとらしく発せられた川澄の声に、ヒカルの心臓が激しく高鳴った。 宇津木さんっ! いてもたってもいられなかった。ヒカルは制止する鮫島の腕を振りほどいた。一瞬だけ 息が止まり、一瞬だけ躊躇する。だが、次の瞬間にはもう、呼吸を再開させ、肺に思いっ きり空気を吸うと同時に――走り出した。 「ああっ……今、行くわ……宇津木さん、宇津木さぁん……父さん」 どんな理由や理屈があったとしても……ずっと傍にいてくれた。ずっと助けてくれてい た。ヒカルが走る理由は、それだけで十分だった。そう思うと、また涙が滲んだ。 「……ッ、知らねえぞ」 背後から鮫島の声が聞こえ、直後に川澄が笑った。「さあ、みんなで見に行きましょう か……この物語の決着を……」 ――――― 澤光太郎の記憶の中の母はいつも疲れたような顔をしていた。そう。目を閉じると今も、 疲れて溜め息をつく母の姿が浮かんでくる。 「母ちゃん、疲れているの?」 ずっとずっと昔――澤は母にそう聞いたことがあった。すると母は、「あのね……うち、 父ちゃんも母ちゃんもね……」と言ってしばらく何かを考えていた後で、「……騙されて、 お金を取られて、貧乏して、悲しいの……イヤだね、貧乏って……アハハ……」と言って、 疲れたような笑みを浮かべた。 その瞬間からだ。 その瞬間から、澤は幼心に決めたことができた。 ……人生とは、バレなければ何をしてもいい。強盗でも、放火でも、殺人さえも、世間 に発覚しなければ何をしてもいい、と思った。 だが、許せないこともある。 それは――…… 「……ようやく来やがったか、クソったれ野郎が……」 弱者を嘲り、自分が強者と勘違いする者―― 弱者をいたぶり、ほくそ笑む者―― 弱者を騙し、カネを得る者―― それだけは、絶対にっ、許せなかった。 ――――― 手の甲で頬に伝わる涙を拭い、足をフラつかせながらヒカルは駆けた。そして、宇津木 のそばに――顔じゅうに青アザができ、口からおびただしい量の血を吐き、逆方向に骨が 曲がった手足や指を大の字に広げた格好で地面に倒れた宇津木のそばに歩み寄った。 「……ヒカル、様」 "聖女"を見上げ、宇津木が呻いた。 「"様"はもういらないっ! いらないんだよっ! だからっ!」 膝を崩しながらヒカルは叫んだ。「死なないでっ! 父さんっ!」 涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、ヒカルは叫び続けた。「何で言ってくれなか ったのっ? 何で私なんかのためにっ! どうしてっ?」 「……お前の母さんとの約束なんだ……楢本家は代々、"そういうもの"らしい……だから、 済まなかった……」 囁くように言って宇津木は目を閉じた。そして、ヒカルは宇津木の首に腕を伸ばし、しっ かりと抱き締めた。 「俺様を無視するなンざ、エエ度胸しとるなあ? クソ女……」 中年の男の野太い声がし、辺りを見回すと、そこには大勢の人々がいた。時間は夕暮れ、 景色はオレンジ色に染まり、人々の顔には影が差し、誰が誰かはわからなかった。 ヒカルは影の差す人々の顔をのぞき込んだ。そこには――同じような黒いスーツを着て、 彼女と宇津木を取り囲むように立ち並び――怒りと軽蔑の眼差しを向ける男女の顔が無数 にあるように見えた。 怖い。 信じ難い恐怖に、ヒカルの体は硬直した。 人と人との間に見える向こうに、倒れて動かない別の人々が見えた。芝生の上に倒れて いるのは大人だけではなく、老人や子供もいる。学生らしき制服を着た若い少年や、妊婦 らしきお腹の大きな女性もいた。 ヒカルは神の名を叫ぼうとした。"神はいない"と信じかけていたはずなのに、"神も神託 も嘘っぱち"だと思いかけていたのにも関わらず、ヒカルは神の名を叫ぼうとした。 ……フィラーハ様。 だが、まるで金縛りにでもあったように、口はおろか、体もまったく動かせなかった。 ……助けてください、フィラーハ様。私を……どうか……私たちをお救いください。 ヒカルは祈った。祈り続けた。 次の瞬間、ヒカルの周囲から、豪雨のような罵声が浴びせられた。 「下劣な詐欺師女っ、死ねっ!」 「イカれた犯罪集団めっ、消えろっ!」 全身を戦慄が走り抜ける。 恐怖に目を見開いて両手を握り、天を仰いだ。 「死ねっ!」 黒いスーツを着た大勢の人々が自分をなじり、けなし、罵声を浴びせ続ける。 「死ねっ!」 スーツを着た人々はジリジリと歩みを進め、少しずつヒカルを包囲していく。 「死ねっ!」 ヒカルは恐怖に凍りつきながら、目を閉じた宇津木を抱き締め続けた。 「……助けて……フィラーハ様……誰でもいい……誰でもいい、から……」 ヒカルがすべてを諦め、絶望し、腕に抱く宇津木と同じように目を閉じようとした―― その瞬間、その時――風が止み、夕凪が訪れた。 空気の振動が止まり、溢れていたヒカルへの罵声が止まる。 "聖地"に静寂が訪れたその瞬間――再び罵声を続けようとしていた男女の壁の隙間から、 ひとりの男が姿を見せた。 「……うんざりだっ!」 ヒカルの目の前に立った男が叫んだ瞬間、全身に痺れるような電気が流れた。 「もう、たくさんだっ!」 ああっ……本当に? 本当にっ? ヒカルはまた涙を流した。 「こんなことをして何になるっ?」 助けに来てくれた……私を……こんなどうでもいい女のために、こんなどうしようもな い人間のために……。 「俺たちはっ、何も変わらねえじゃねえかっ!」 それは……投げやりで、乱暴で、とても……とても力強い声だった……。 そうだ。間違いはなかった。フィラーハ様の名を道具のように使い、世間を欺き、大勢 の人々を操り、騙し、結果としてカネを搾取していたような私を――この、この岩渕誠と いう男は助けに来てくれた。助けに来てくれたのだ。 助かる? いや、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ……。 助けに来てくれたこと。彼が来て、私の前に立ってくれたこと……。それだけが大切な ことなのだ。 そう。ヒカルは"神託"の最後の言葉を思い出した。最後に切り抜いて胸にしまった"神託" の最後のページの文章を思い浮かべた。自分で書いた、自分の運命を思い返した。 『もしこれが夢でなく現実となるならば、私は母の死を受け入れ、"神託"を捨てる』 ありえる話ではなかった。私を助けてくれる者など、生涯現れるはずがなかった。何も ない、何の"力"もない私を助けてくれる者などいるはずがないのだから……でも。 「ヒカルさん……無事か? 宇津木は……ヤバいな、意識がないのか?」 呼吸を荒げて岩渕が言い、ヒカルはまた涙を浮かべ、強く唇を噛んだ。 「ムシのいい話だけど……助けて……助けて、岩渕さん、岩渕さあん……私と、父さんを ……助けて……お願い……」 呻きながらヒカルは言った。それから、服の袖で涙と鼻水を拭った……。 夕凪は止み、また小さな風が吹きはじめ……岩渕もまた――小さな笑みを浮かべた。 ――――― 腕を組んで仁王立ちする澤社長を、岩渕はじっと見つめた。夕日の加減か、澤の顔は鬼 のようにも見えた。 「……茶番は終わりか? 小僧……」 組んでいた腕を解いて澤は、倒れた宇津木とそれにすがりつくヒカルではなく、岩渕を 睨みつけた。……どうやら、俺を助けに来てくれた、というワケではなさそうだ。 「社長……もうヤめてくれないか?」 岩渕は目に力を込め、澤の目と視線を合わせた。「こんなことは間違っている……こん な……暴力で何かを解決するなんて……バカげている」 そうだ。間違っているのだ。その気になれば、平和的に解決することなど容易にできる のだ。方法などいくらでもあったのに……。 「……岩渕、俺様はなぁ、これまでお前にいくらのゼニを使ったのか、わからないのか?」 岩渕のほうに一歩踏み出し、澤が言った。その言葉は、まったく自分の予想していたも のとは違っていたので、岩渕は思わず顔を歪めた。 「……わからないのか? 本当に? お前はここまでバカなのか?」 何人もの人を殴り血の付いた特殊警棒を片手に握り締めたまま、まるで九官鳥のように 澤が繰り返した。「わからないか? 本当に? 本当にわからないのか?」 「……仕事への報酬、だとは思っています」 込み上げる恐怖を堪えながら、岩渕は言った。「感謝はしています……ですが、やはり、 あなたは間違っている……」 「……間違っている? だと? なあ、単純計算で5000万だ……5000万だぞ? ……そ れだけの価値と報酬をお前に与えた……お前は、そンな俺様の"情け"と"恩"をアダで返す のか?」 澤がまた一歩踏み出し、60センチほど岩渕に近づく。周囲に並ぶ《D》の社員たちの 顔が緊張に強ばむ。 「……何と言われても、何度でも言います……アンタは間違っているっ!」 凄まじい恐怖を堪えて、岩渕は言う。間違ってなどいない……間違っているものか……。 「社長、引いてください。そして、《F》のための治療と慈悲を……頼みます」 澤がまた一歩踏み出し、さらに60センチほど岩渕に近づく。そんな澤の顔を岩渕は、 まじまじと見つめた。 ……鬼、か。 岩渕にとって、今の澤は正真正銘の"鬼"に見えた。 この雰囲気――まるで悪霊が憑りついたような、怒りと憎しみに支配された者が宿す姿。 そして――あの目……不安げで、悲しげで……孤独に泣いてしまいそうな人間の目。様々 な情念が複雑に交わったような……そんな姿と目をして……どうしてこんなことに? 次の瞬間、"鬼"は岩渕に襲いかかった。 「――たわけがっ!」 血まみれの警棒を捨て、一足で岩渕の懐へと移動し、そのままスーツの襟を掴まれる。 凄まじい力で首を引き寄せ、澤は岩渕の顔面に拳を叩き込み殴り倒した。 「があっ!」 奥歯が一撃で破壊され、瞬く間に口内で血が溢れ――眩暈がするほどの強烈な鉄の匂い を嗅ぎながらも……岩渕の意識は失うことを許さなかった。 「岩渕よ……お前、本当――変わっちまったなぁ。原因は、やはりアレか?」 澤が拳に付着した血をスーツの裾で拭いながら言った。「……あの姫は、やはり俺様に とっては疫病神……甘く見てたがや……追い出すか? 岩渕……」 "鬼"――。 岩渕は怯んだ。決闘での勝ち目があるとは思えなかった。 けれど……岩渕の中にある何かは怯まなかった。 「……それ以上のことは言うな。例えアンタでも……それだけは許さない……」 「はあっ? 調子に乗ンなやっ! クソガキッがっ!」 澤が絶叫し、岩渕は立ち上がって拳を固めた。 ――――― ようやく辿り着いた"聖地"の中心で、彼と澤社長が殴り合っている光景が見えた。 私はすぐにでもふたりの間に割って入り、この戦いを終わらせようとした。意味がわか らなかった……ううん、そもそも意味なんてものがあるとは思えなかったから。 でも……できなかった。 急いでふたりの前まで駆けようとした私の肩を、川澄奈央人が掴んだのだ。 「……行かないほうがいいですよ? ……いや、行くな」 「なぜですかっ?」 「おそらく――今の社長にとって姫様は……潜在的な"敵"ですからね」 私は川澄の目を見つめた。普段とは違う、とても冷静で、とても真剣で、とても自然で ……それでいて優しげで、まるで岩渕さんのような目――私は川澄の隣に子犬のようにう ずくまった。 澤社長の拳が岩渕さんの顔や胸やお腹に叩き込まれる。その度に彼は立ち上がり、低い 呻き声と共に澤社長へと殴りかかる。 「岩渕さん……」 目を閉じ、彼のために祈る。祈り続ける。 「……まるで親子ゲンカね」 後から来た宮間有希が言う。何を言っているのか理解できなかった。 「宮間さんは……知っていたんですか? こうなることを……」 「うーん……」 腕を組んでふたりの戦いを見守りながら宮間が言う。 「状況を見なさい。周りの《D》の社員たちはただ呆けているワケじゃあないわ。きっと こうなることを"誰か"に示唆された可能性があるわね。たぶん……熊谷部長だと思うケド」 そうだ。澤社長と岩渕さんが殴り合っているのにも関わらず、周りの《D》の人たちは 静観を貫いている……でも……でも……どうして? どうして止めてくれないの? 「……《F》が《D》を利用したように、澤のダンナもまた――この騒動で"変わりたい" と思ってんじゃあないのか? 言葉には出さねえが……」 煙草の煙を空に向けて吐きながら鮫島恭平が言う。「不器用なんだよダンナは、だから、 周りが察しなきゃならねえ……《F》の連中が許せねえっ、てのも本音だがな」 「……じゃあ、私はどうすればいいの? どうすれば、ふたりを止められるの?」 「さぁね」 「そのうち終わるんじゃない?」 「死にはしねえよ」 無力感が襲い、京子の顔はみるみる紅潮し……やがて、涙が出てきた。涙は次から次へ と溢れ出て、芝生の上にポタポタと滴り落ちた。 「……今度は泣いても終わりませんよ?」 私の涙を見て川澄は笑った。そっと私の顔をのぞき込み、私の顔を見てさらに笑った。 それが悔しくて……憎らしくて……強い怒りさえ込み上げ――私は怒鳴った。 「あなたたちはっ! そこに立っている《D》もっ! 武器を捨ててっ、《F》の人々を 介抱しなさいっ! 《F》の全員が無事でなければ、私はあなたたちを許さないっ!」 怒鳴った。 怒鳴り続けた。 伏見宮京子は、声を枯らして怒鳴り続けた……。 ――――― 岩渕誠と澤光太郎の戦い――。 それは壮絶な戦いだった。 「――こいつらはクズだっ! 社会に巣食う虫ケラだっ! 気でも狂いやがったンかっ? クソガキィッ!」 「だとしてもっ、狂っているのはアンタも同じだっ!」 澤は岩渕の顔面へ拳を放ち、岩渕は澤の拳を頭頂部で受け止めた。拳を痛めて一歩引い た澤の顔面に、岩渕はそのまま頭突きを食らわせた。 「――チィッ! しゃらくせえンじゃっ、ボケェ!」 獣のような咆哮を吐き、澤はなおも岩渕に突進する。 「あの女が原因かっ? あの女と出会ったからっ、お前は俺に逆らうのかっ?」 「黙れっ! 京子は関係ないっ!」 澤が岩渕の下腹部めがけて前蹴りを見舞い、岩渕は悶絶しながらも澤の脚を掴んで芝生 へと放り投げた。 「出会わなけりゃあ良かったンだっ、あの女の出現で、お前はお前じゃあなくなったっ!」 「俺は俺だっ! ただアンタの間違いを正そうとする、ただの人間だっ!」 岩渕の拳が澤の顔面にめり込み、今度は澤の奥歯を破壊した。澤は折れた奥歯を出血と 共に岩渕の目へと吐き、怯んだ岩渕の脇腹へ蹴りを入れた。 「ぐぅぅ……」 血ヘドを吐いて芝生の上を転げ回っても……未だ岩渕の意識は明瞭のままだ。……イラ イラする。野郎……さっさと諦めやがれってンだ。 「俺様の命令だけに従ってりゃあ良かったンだ……それだけで、お前には何もかも与えて やれたのにっ……」 「うるせえ……だったら俺はもう……何もいらないっ!」 へし折れた肋骨に片手を当てながら、岩渕はなおも拳を澤の顔めがけて飛ばした。澤は 向かってきた拳を掌で受け止め、内臓が破裂するほどの力を込めて腹を殴った。 そう。膂力の差は歴然だった。歴然であるハズなのに……。 澤は感じていた。 岩渕の、この、不屈の精神力はどこから来るものなのだろうか? 「バカがっ! 知らねえだろうなっ! お前はっ、俺様のっ、何も知らねえっ、何もわかっ ちゃあいねえっ! 俺様の夢がっ、お前にわかるかっ?」 激痛に身をよじって倒れ込み、苦悶する岩渕の頭上で澤が叫んだ。 「――いずれ、俺はお前と丸山佳奈を結婚させて、《D》を退く……その後、俺は築いた 財産を土産に故郷へと凱旋し――そしてっ、いつかっ、俺の両親をハメたクズ共とっ、俺 の親を裏切って見殺したゴミ共とその家族をっ……俺の故郷から永遠に追放するっ! そ れが、俺の人生の目的だったっ! それをっ、てめえとあの女が邪魔をしたっ!」 …………っ! それは――その場にいる《D》の誰も知らない、誰も聞いたことのない、誰にも話した ことのない"澤の願い"だった。 「……出会わなけりゃ良かったンだ……俺たちは……"あのまま"で良かったンだ……そう すれば……佳奈に……アイツに《D》をくれてやれたのにっ!」 「……それ以上は……言っては、ならない……"禁句"だぜ? 社長……」 ――立ち上がる。 岩渕は、それでも立ち上がった。 肋骨が何本も折れ、内臓をすべて吐いてしまいたいほどの苦痛を堪え、真っ赤に腫れた 両足を震わせながら……それでも立ち上がった。そして、再び澤へと殴りかかった。もち ろん、澤は先程までと同じように、膂力の差を見せつけるように避け、何の苦もなく岩渕 の顔面を殴って地に叩き伏せた。 それでも――……岩渕は諦めなかった。 切れた頭部から鮮血を滴らせ、歯の折れた口内から泡のような血を吐きながらも、岩渕 はまた立ち上がった。 「……それで? 今はアンタの過去の話じゃあない……ただ、アンタのその考えは間違っ ていると言いたいだけだ……」 「さっさと倒れやがれっ! 小僧っ!」 岩渕は激昂する澤に投げ飛ばされるたびに立ち上がり、低いうなり声を上げて澤に飛び かかっていった。そして、そのたびに痛々しいほど激しく殴られ、蹴られ、激しくぶちの めされた。 それでも――岩渕は立ち上がった……。 「しつこいぞっ! クソガキィッ!」 ……俺は……俺は……、間違ってなどいない……そのハズだ………。 そのハズなのにっ! まさか……いや……。 その、まさか、だった。澤は、かつて自分が死ぬほど嫌悪していた存在に"堕ちてしまっ ていた"ことに、ようやく気づきはじめた。 嘘だ。 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ……そんなハズがねえ。 俺は……いつのまにか、"俺自身が最も憎むべき人間"に……なって、いたのか? なら……負けるのは、俺? "負けるべき悪は"、俺か? 目の前の男は、再び拳を固め――澤へ殴りかかった……。 ――――― 僕は、その様子を、近くでじっと見つめていた。 既視感だね。川澄奈央人は思った。 つまり……このままヤり合えば……敗北するは澤社長。 どうします? まぁ……僕としてはそのほうが都合が良いのだけど……。 気になることは、ある。 あの見た目からは想像し難いが、澤社長はワリと冷静な性格だ。それがどうして、こん な無茶な襲撃を? しかも突然に? 何か……あるのか? それとも……まさか……いや……僕も"カン"が鈍ったかな……。 川澄奈央人は考えていた"カン"をすぐに頭の中から打ち消した。認めたくはない現象、 認めたくはない言葉――……。説明が不可能な事象――……。 「……『オカルト』は嫌いじゃあないんだけどね……」 次第に顔から余裕の消えつつある澤を見つめ、川澄は小さく呟いた。 「"あの女"って、私のこと?」 背後で女の声が僕に聞いたが、面倒なので無視をする。 ――――― あっ。 それは本当に一瞬のことで、何が起きたのか、澤自身にもわからなかった。その瞬間、 澤の顔が奇妙に歪み、膝から下の感覚が消失した。 意識ははっきりとしているのに、澤は膝から崩れ落ちた。 そう。岩渕の拳が澤のアゴを捉えたのだ。肉体的ダメージは軽微なものの、三半規管に 何らかの障害が起きたのは明白だった。 ……いつか、鮫島が言ってやがったな……岩渕は『神様に愛されている』……か。 その"神"が伏見宮京子に関係しているのかは知らねえが……ツイてやがるな、岩渕。 『天は自ら助くる者を助く』……か。さしずめ、こいつの根性に運が味方した、こいつの 考えに神が理解を示した……て、ところか……畜生。 ……ここまでか。 ここまで、なのか? 「……アンタは間違っている……俺の話を、聞いて、くれ……社長……」 岩渕は激しく息を喘がせ、満身創痍になりながらも――未だ澤を説得しようと言葉を紡 いだ。その後で、思い出したかのように手の甲で唇の血を拭った。 ……俺の味方は? ……いないのか? 周りの《D》の社員たちは皆――《F》のヤツらの介抱に走り、抱き起したり、謝った り、救急車に連絡したりしていた。武器を携えている者は皆無だった。 ああ、そうか。 何となく、わかってはいた。 こうなることは、わかっていた。 連れて来た20名の社員たちはすべて営業部と総務部の人間だ。しかし、その内訳には 偏りもあった。そう。彼らの所属は営業部と総務――だが……それだけではなかった。 「……岡崎派、か」 そうだ。彼らは、澤自身が岡崎の児童養護施設から引き取って雇用した者たち、つまり、 岩渕と比較的親しい関係性を持つ後輩や同期。普段から岩渕に対して好意的な意見や意思 を持つ者たち――。 ――結局、総務の熊谷にしてやられたのだ。……あの野郎。 しかたがない。これも……運命か。 「……脚がフラフラだ。ほら、岩渕、もう一発、俺を殴れ……それで、俺は倒れる」 澤は震える両足で立ち上がると、掌をクイッと揺らし、岩渕の拳を待った。 「……俺はアンタを止める……だから……だからっ!」 真っすぐに飛ぶ岩渕の拳を見つめ、澤は敗北する覚悟を決めた。 その――つもりだった。 敗北して"やる"、そのつもりだった。 岩渕の拳を頬で受け、 顔が歪み、 痛みが走り、 重心が背後へ向き、 倒れ、 そして、 敗北を喫する、 その――つもりだった。 そのつもりだった、その瞬間―― その時―― 感触があった。 小さい、 とても小さい、 子供のような手。 小さくて、可愛らしい、女の手。 ああ……ああ……そうか。そうなのか? 瞳の奥から涙が込み上げ、澤は奥歯を噛み締めた。 そうだ。これは――…… かつて、深く愛していた女の手。 かつて、失ったはずの女の手が―― 澤の背を支えていた。 決して澤が倒れぬよう、女の手は、力いっぱいに澤の背を押してくれている。 堪えていた涙が、溢れた。 とめどなく、ただ、とめどなく、涙が流れ、頬の血を洗い流していく……。 ああ……。 そうだ。 味方は、いた。いてくれた。 こんなヤツに、こんな……身勝手な男の……。 今も、ずっと、そばにいた。いてくれた。 俺の味方でいてくれた……。 愛されていた。 生きている時も、死んだ後でさえも、 俺を愛してくれていた。 この世界で、 こんなクソみたいな世界で…… こいつは、この女だけは―― 俺の味方でいてくれた……。 自分の体から何か消え去るような感覚に、澤は驚いた。それまで心に纏っていた悪意や 憎しみや怒りが、まるで水に流れて溶けて消えるような感覚……。 ……そうか。これが――鮫島の言う、"転成"ってヤツか……。 大きく息をひとつ吸い、ネクタイを緩めてシャツのボタンをひとつ外す。 変質した澤の雰囲気に困惑したのか、岩渕の目がパチパチと瞬いた。 「岩渕?」 「……はい」 「どうやら、俺様もお前と同格に至ったらしい。……お前とは違う"何か"に愛されて、な」 「……?」 「わからンか? まぁいい……何にせよ、次の一合で決着だ。お前の"神"と俺様の"女"―― どちらが正しいのか? 確かめてみるか? まあ、どちらも正しいのかもしれないが…… ぼちぼち、終わろうか……」 背後に目をやる。 黒いスーツを着た少女が、澤の背を抱き締めて微笑んだ……。 そして――……。 ――――― 『聖女のFと、姫君のD!』 k3(後編 最終回)へ続きます。 また少し休憩……。sees大好きさんたちの新曲アラカルト。 Guianoさん……ヨルシカ氏……みかんせい様……みんな大好き……。 次回の"後""最終話"更新は……2020/04/25~26の未明です。イケます。たぶん💦 こちらは今話がオモロければ…ぽちっと、気軽に、頼みますっ!!……できれば感想も……。 人気ブログランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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