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元・経営コンサルタントの投資日記

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2007/09/24
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カテゴリ:音楽

今日は連休なので、趣向を変えます。
オリビア・ニュートンジョン。先日、VAN-HALEN再結成をご紹介したときにユーチューブでたまたま見つけました。小学校時代に「カントリー・ロード」「そよ風の誘惑」などを知り、その後結構好きで聞いていました。今どうしているんだろうとネットで検索したら、結構現役でがんばっているので少し紹介。

1948年9月26日生、英国生まれ。父親はケンブリッジ大学ドイツ語教授。母親はドイツ人の間に生まれる。母方の父親(つまりおじいちゃん)は、なんとマックス・ボルンというドイツが生んだノーベル物理学者だそうだ。ノーベル賞受賞者の孫だったんですね。

5歳のとき、父親は豪州メルボルン大に転籍。これに伴い、豪州移住。14歳ごろからバンドなどで歌を披露し、16歳とき渡英しデビューを飾る(ビートルズ全盛時代ですね)。下積みが続くが、当時の英国人人気歌手クリフ・リチャードのデュエット相手に抜擢!(C・リチャードというのは当時英国で、ファン層が違えどビートルズの次に人気があったはず。結構甘ったるい声でオリビアの透き通った声はフィットしたのだろう。彼とは今でも交流があり、オリビアにとって恩人のような存在)。

  デビュー当初
   71年ごろのオリビア(かわいいですね)

1971年にな、なんとボブ・デュランが作った「IF Not For You」でメジャーデビュー。いきなりヒット。 
このころジョン・デンバーの曲「カントリー・ロード」をカバー。カントリーミュージック界の女王的存在に。

1975年「そよ風の誘惑」が全米1位を記録。ポップス界に進出。日本でも人気沸騰。「妖精」のイメージで紹介される。オールドファンにはオリビア=妖精 をイメージする人が多いと思う。よく考えると全米1位まで下積みが長いがここららは音楽キャリアの最盛期に突入していく。

 70年段前半    


1978年大きくイメチェンを。脱・アイドル路線というべきか、結構びっくり。映画「グリース」に出演。当時人気絶頂のジョン・トラボルタの相手役として抜擢。

彼は1975年の「サタデー・ナイト・フィーバー」が爆発的ヒットを放ち、当時はトップ俳優だった(今のおじさん役とは違って、プレスリー並に腰をくねくねさせるデンジャラスなイメージだったんです)。

ハイスクールを舞台としたミュージカル系の映画で、高校3年生の女役を探していたところ、オリビア側から売込みがあったそうです。監督は年齢的に躊躇したらしいですが、当のオリビア本人がやる気満々だったといい、「抜擢」に及びました。


映画もヒット、「サタデー」時代から続くサウンドトラックブームに乗り同名アルバムも大ヒット。不良少女、「積み木くづし」か「スケ番デカ」みたいなメーク。しかし、これがハマッている! 

  グリース
   

1980年 次はまた清純派路線映画「ザナドゥ」に出演。映画はヒットしなかったが、サウンドトラック版は大ヒット。「マジック」、「ザナドゥ」などが大ヒットした。「マジック」は全米1位を記録。「マジック」は2005年全豪オープンテニス男子決勝の試合前のセレモニーでも披露している。

1981年アルバム「フィジカル」を発表。シングルカット「フィジカル」は空前の大ヒット。ビルボードチャート10週連続第一位を記録。当時の女性シンガーの新記録だそうです。これを破るのは1992?だったか、ホイットニー・ヒューストンの「ザ・ボディー・ガード」(14週連続、ケビン・コスナーとの共演映画のタイトルトラック)まで守られたようだ。


    フィジカル フィジカル 


この曲はビルボード誌の80年代の最大のヒット曲だったようです。ちなみに、ボン・ジョビ「リビング・オン・ア・プレイヤー」、マドンナ「ライク・ア・バージン」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・USA」、プリンス「パープル・レイン」そしてマイケル・ジャクソン「スリラー」・「ビート・イット」…。シングルとはいえ、こんな曲より流行っていたのは意外です。

この要因としては、いろいろありました。まずイメチェン。「フィジカル」では、髪の毛をばっさり、ダイアナカット! また、依然優等生のイメージが強かった彼女が男性を挑発するような曲をシングルカットした。「フィジカル」のレオタード姿は新たなファン層の開拓に成功した。さらに当時の健康ブーム・フィットネスブームにも乗った。そして、MTV。80年ごろから勃興したこの媒体を彼女は積極的に取り入れ、こういったイメージ戦略に大きく活用した。サウンドもきらきらした感じから、ビートを利かせ、ぐっとロックっぽくなり、そういう曲がまた流行った。

 81年着物

   フィジカルツアーで来日したとき。着物似合いますね

この後ジョン・トラボルタと再び共演したり、「ソウル・キッス」などで再び悪女的なイメージで売り出すが、やや人気が下降線。1985年には10歳以上年下の無名俳優(ザナドゥの脇役男優、マット・ラッタンジー)と結婚し、娘を出産。
1988年、子育てを一段落。「ルーモア(噂)」はエルトン・ジョンの曲だったがぱっとせず、音楽シーンの第一線からやや身を引く(曲はエルトンのポップなリズムが良くミックスされ好きです)。

1992年父親が癌で他界。なんとその日に自分が乳がんであるとの告知を受ける。動揺したオリビアは父親の死に目に駆けつけることが出来ず、その後ショックで歌手引退を考える。
癌の方は早期発見だっただけに、治療が完了でき、療養・育児などが中心となる。

    娘と

    娘クロエと。今は彼女も歌手デビューしたそうです

1995年、離婚。しかし、このとき「ガイヤ」というアルバムをリリース。このころから、自分の内面を全面的に押し出す歌作り(彼女作詞は出来る)が中心になっていく。

音楽界で生きるか、ややあやふやだったこの時期だが、あのクリフ・リチャードと再びデュエットを復活させるなど、彼にやや引っ張られる形でTVや人前に出る機会が増加していく。
また、自ら乳がんを克服したことにより、癌撲滅運動などに積極的に関与するようになる。
地元メルボルンには「オリビア・ニュートンジョンがんセンター」を設立。募金募集の先頭に立つ。自らもAU$5milほど寄付した模様。


癌については、「自分は若いころ、年をとって老いたり病気になったらどうしよう。ということを良く考えていた。そしたら本当に癌になってしまった。病は気持ちからなのです。だからそんな後ろ向きなことを考えず、楽観的に考えるように自分をコントロールしています。」というメッセージを講演などで、がん患者を応援しているようです。「私に出来ることは、私のことを知っているがん患者の方に元気な姿を見せることです」(主旨)とも語っています。
さらに、80年代後半から引き続き行っていた、動物愛護運動なども積極的な参加をしている。

1999年にはコンサートも再開。以後、70年~80年代前半のような活動は無理ながらマイペースの音楽活動を継続中。
2000年シドニー・オリンピック開会式セレモニーで歌を披露。
2003、2006年には来日公演も実施。

 06年来日
   
これは2006年ごろのスナップ

一見、順風満帆だったように思っていましたが、メジャーデビューまでの道のり、その後成功まで、成功後の更なるチャレンジなどシンガーとしての彼女は、恵まれた容姿以上に努力家だったと思います。デビューしたのがビートルズ全盛の時代で女性ポップ・シンガーのキャリアってそんなに長続きしなかったはずです。「ポッと出」で終わるケースが多かった。


さすがに86年ごろから人気が下降線をたどりますが、そのころはマドンナ、シンディ・ローパーの全盛期やさらにはティファニー(うわっ、懐かしい。彼女の「 I saw 『 him 』 standing there 」はビートルズファンとしては許し難いものがあった)、デビー・ギブソンなど10代アイドル(当時はアメリカ版おにゃん子なんて私は言っていましたが)などの「若手」の進出で世代交代を余儀なくされました。


個人的にはイメチェンの度合いが大きすぎて、ついていけなくなったところがある。彼女の場合、年齢に合わせたマーケティング戦略を行っていたのでしょうが、女性だったからか、イメージチェンジを繰り返しすぎたのではとやや悔やまれる(ローリング・ストーンズ、U2またはマドンナなど基本コンセプトを変えずに長期第一線でがんばる人が最近のトレンド。コアコンピタンス戦略といえば大げさでしょうか?) 


ちなみにマドンナなどは「フィジカル」などの影響を強く受けたとも言われています(彼女もエイズ撲滅運動や環境保護問題でチャリティー活動をやってますね)。杏里の「オリビアを聴きながら」はこのオリビアであることも有名です。

癌や離婚など人生の難局を乗り越え、こうして今でも尚、自然な笑顔が素敵な彼女を想像すると相当芯の強い女性と思われ、今後ともがんばってほしいと思います。とても○○歳には見えないですね。悪そうな女のイメージより、自然な笑顔がいいですね。


といいつつ、同年代で女王様的なイメージのシェール(Cher)が99年に「ビリーヴ」という曲を大ヒットさせたので、もう一花シンガーとして咲かせてほしい、というのも同じく「歌手オリビア」への本音でやや複雑。

    自宅  
左のきゅうすの中は日本茶なのでしょうか?たぶんメルボルンの自宅だと思います。







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Last updated  2007/09/24 11:04:11 PM
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