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テーマ:ゴスペル(3264)
カテゴリ:今日のちょっと物思い
「今日のちょっと物思い」
![]() 明治維新から終戦までの、紆余曲折にみちた日本のありかたを、人びとは、ほぼ二つの相反する立場からながめている。 列強のあいだにあって、その餌食とならないためには、先進国にならって、実力をもって列強と競争してゆくほかはなかったので、勝ちぬいたあとの終盤で敗けたのは、本懐と言うべきであるという見方が一つ。つまり、「明治百年」をよしとする見方である。もう一つは、日本は、列強のあとにくっついて帝国主義をおしすすめ、朝鮮を併合し、満州やモンゴルから北中国を侵略しようとして泥沼に堕ち、太平洋とビルマで惨敗して、城下の誓いをさせられ、百年の野望が破れた。それを幸いとして、その後は平和設計に切りかえた、それからの日本のありかたこそ、正しいものであるという、「戦後二十年」をよしとする説とである。 僕としては、この明治百年説にも、戦後二十年説にも、手放しで賛成することはできない。そのどちらにも、警戒すべき点が多いからである。百年説が、引かれ者の小唄であるあいだは、何ごともないが、国際上のバランスのうえで、何か突破口でもみつかる機会があった場合は、日本国民をどんなことに直面させないともかぎらない。二十年説にしても、デモクラシーの新しい歴史のうえで、どんな悲劇の口火を切らないとも測られない。 もちろん日本人の根性のなかには、そんなわるい品物ばかりがつまっているわけではない。日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ。百年説の人も、二十年説の人も、開国日本を、いまだに高価に買いすぎたり、民主主義で、箪笥にものをかたづけるように手ぎわよく問題がかたづき、未来に故障がないというような妄想にとりつかれてほしくないのだ。しいて言えば、今日の日本の繫栄などに、目をくらまされてほしくないのだ。 そして、できるならいちばん身近い日本人を知り、探索し、過去や現在の絶望の所在をえぐり出し、その根を育て、未来についての甘い夢を引きちぎって、少しでも無意味な犠牲を出さないようにしてほしいものだ。 絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿なのだ。それほど、現代のすべての構造は破滅的なのだ。 日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物ではないか、とさえおもわれてくる。 (金子光晴『絶望の精神史』) 註:『絶望の精神史』は単行本が光文社から1965年に刊行された。
Last updated
Jun 12, 2022 11:17:00 PM
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