芒洋の日々 

2007/01/17(水)06:51

サダムが死んだ日に、サダム・フセイン・モスクで、サダムの死を悼むということ 2

65 Arden Road(5)

この日、礼拝から帰ってきてから昼過ぎまでは家で過ごした。30人前近くあると思われれるガニー氏のチキン・ライスを食べながら、少し早い正月の一時を楽しんだ。さすがに多すぎだろうという声も聞こえたが、この料理は早朝4時までかかって作ったものらしい。こういう時だけは、彼は並々ならぬ意欲を発揮するのである。 雨が降り始めた午後3時頃、隣の家に住むソヒールがなぜか寺院に行くというので付いていった。ミャンマー系のその寺院は、真っ黄色の奇妙な形の建物で、前に住んでいたバーミンガム大学の寮の近くにあった。2年前パキスタンからイギリスに来たソヒールは、現在パート・タイムで働く傍ら、哲学を大学院で学んでいる。一応ムスリムである彼は、モスクは勿論だが、仏教の寺からシーク・ヒンドゥー教の寺院、キリスト教の教会まで、時間を見つけては足をのばしているそうだ。 瞑想でもするだとてっきり思っていたのだが、寺院に着くと私たちは、まだ若い30過ぎの僧が待つ部屋に通された。この時初めて、彼が仏教僧に質問をしに来たのだと知った。彼らの“寺問答”は、「何が善で、何が悪なのか?」という問いから始まった。この僧の答えはなかなか理論的なものであり、それ故明確な“答え”ではなかった。始めに僧は、善悪は社会や時代によって変わるものだと言った。しかし他方で、universalな善悪の判断も存在する。第一に、身体的には人間は同じ痛みを感じるものだから、自分が痛みを覚えるものを他人に課してはいけない。第二に、形而上学的にも善悪の判断は可能だと信じるが、かといってそれが何なのかはわからない。 では、「人生の意味とは何か? なぜあなたは生きているのか?」 ソヒールの目つきは、いつになく攻撃的だった。生きる意味が見い出せない、と彼は言った。僧は、今にも噛みつきそうな彼の物言いに驚いているようだった。しかし冷静に、「それは人に聞くべき事ではない」と答えた。「まず、自分で死ぬことができないから生きているとも言えよう。だが、私が何に人生の意味を見い出しているのかと言えば、人の喜ぶことを施すこと、家族や友人と過ごす時を楽しむこと、それからいかなる人にも危害を加えないことだろう。そのためには、常に中道でいること、一つの物事や信念に固執して人にそれを押し付けないこと。だから私は、これをすれば救われると君に言うことはできない」。 「けれども、僧でいるということは、一つの信念に固執しているということではないか?」 「そうかも知れない。それならば、固執していると言おう。しかし、それを人に押し付けることはしない・・・」。 議論は一時間近く続いた。ソヒールのあまりに真剣な様子に、私はついに口を挟むことができなかった。寺院を出ると彼は、いつもの少し皮肉な調子で、遠くを見つめたまま何かを考え込んでいるような感じの彼に戻った。バスに乗りながら、今日の議論について話し合った。彼は、僧の考え方にはある程度満足しているようだった。寺が主催する瞑想や講義に、そのうち参加しに行くだろうと言った。 僧との議論を引き継ぐ形で、人間には自由意思はあるのかという話になった時、私は人が育ってきた環境や生きている社会が結局ほとんど全てを決めているのではないだろうかと言った。他方で、その個々人が社会を日々構築していっているともいえる、とも付け加えたが。すると、彼は言った。 「その意見には大方賛成だ。でも、イスラーム国家に生まれ育った僕が、仏教の寺に行ってることをどうやって説明する? たとえ、それがあまりに限られていたとしても、僕は人間が自由に思考できることの可能性を信じるよ」。 彼は、その言葉を自分に言い聞かせているようでもあった。 家に帰ってきたのは、夕方の6時を回った頃だった。次に向かった先は、ラシードの、それからまた彼のガール・フレンドの同僚でもあるマレーシア人の家族の家である。アストン大学のPh.D学生である彼女は、同じマレーシア人の医者と結婚し、ペリー・バーに住んでいる。ペリー・バーは、その南にアストンとハンズワースを隣接する町だが、白人の住人が多く住んでおり治安も良い。小綺麗なその家には5人の子どもがいたが、上の4人は奥さんの方の連れ子らしい。 (バーミンガムに住む)マレーシア人の間では、Eidの日とその後数週間、“オープン・ハウス”というものが行われる。日ごとで担当になった家には、その一日の間、朝から晩までかわるがわる客が訪れる。食事はブッフェ形式のようになっていて、ゲストがセルフ・サービスで取っていくのだ。私は前回のEidの時に、ガニーとマーラに連れられてオープン・ハウスに行っており、今回が二度目だった。東南アジアの人は、日本には元々好意的な人が多いのだが(たぶん占領期間が短かったのと現在の経済的な結びつきによるものだと思う)、断食を一ヶ月間やり通したと紹介されると更に熱烈に歓迎されることになる。 3人の博士学生は、Ph.D取得に伴う多大なストレスと犠牲についての愚痴めいた話に花を咲かせていた。その傍ら、私は共通点の多かった旦那さんと話をした。10年前単身イギリスに渡ってきた彼は、サリー州でのSix form(高校のようなもの)、バーミンガム大学の医学部を卒業し、2年前から内科の病院に勤めているらしい。私はサリーにもバーミンガム大学にもそれぞれ一年しかいないことになるが、その間の空白を埋め合わせるように彼はこの地に住み続けているわけである。仕事の関係もあるのだろうが、人生の半分近くをこの国で過ごしているため、もうイギリスにいる方が快適なのだろう。Ph.D取得後にマレーシアに帰ろうとしている奥さんと、現在交渉中らしい。奥さんに4人も連れ子がいることが驚きだったが、この優しそうな旦那さんとだったら案外うまくいっているのかも知れないと思った。 早めに帰ってきた私たち3人は、最後にサヒールのいる隣家を訪問した。Eidというのは、このように親交を深めていく日なのである。この家には、インド人2人、バングラデッシュ人2人、パキスタン人1人が住んでいる。皆、独身の男である。一応彼らもムスリムだが、そこまで厳格ではなく、クリスマスの日の夜にはタリクと私でやって来て一緒にお酒を飲んだ。皆働き人でいつもは忙しく、この日はソヒールしかいなかった。私たちは、羊のレバー料理を食べつつ、4人でトランプ・ゲームをした。私はいつもカード・ゲームの類にはなかなかの実力を発揮し、その時教えてもらったゲームだったが、なぜか一人で勝ち続けた。きっと、一日のうちにモスクと寺院の両方に行ったからだろう、という話になった。生きている意味がないと昼間言ったソヒールも、この時ばかりは楽しそうだった。 夜の12時近くになって切り上げた。外に出ると、昼間の大雨が嘘だったかのように、移民街を静かに照らす月が美しかった。長い一日、そして長い一年が終わろうとしていた。ふと、昼間の仏教僧の言葉を思い出した。「人生はネガティブなものだ。なぜならば、それは無常だから。いつまでも続いて欲しいと思う幸せな時間は、決して止まってくれはしない。一時一時、常に人生は終わりに向かって動いている」。 そして、サダムの死。私はフセインへの同情心をさほど持ち合わせていない(かといって勿論この死刑劇を肯定するわけでもない)が、アメリカ軍による拘束後の彼の憔悴しきった姿ほど、世の無常を示しているものはないだろうと思っていた。サダムは絞首台で、「アッラーのほかに神はない、ムハンマドは使徒である」というムスリムの信仰告白をしたとされる。しかし私には、それがファウストの最後の言葉と同じでなかったことが、少し残念だった。 すなわち、「時よ止まれ、お前は美しい」と。

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