この広い空のどこかで今日もいい日旅立ち

2007/12/08(土)09:31

猫の性格は、その寝姿にすべてを現す?

ペット・猫(106)

おふたりいるニャンくんでも、その性格はことごとく違う。 性格の独自性では人間のように社会生活で摩耗したりしないから、その自由奔放ぶりは長じても変わることがない。基本的に持って生まれた性格が、さらに花開く、というわけだ。 考えてみれば人間というのはあちこち矯正されてしまうから、本来の性格とその性格に不即不離に携わっている才能も、一緒に矯正されて、イマイチのステレオタイプが醸成されてしまうわけで、社会に見合った性格で生きさせられている部分が大いにある、ということになる。 これはやっぱり、所詮人間はどうやら本来獰猛な生物で、社会生活という感化院に入れないとどうにもならぬということでもあるのかもしれない。天才だけがその感化教育を拒否し、繚乱とその才能を刻印して社会を封じ込めてしまうのである。 タマに例外はいようが、猫はさほど獰猛ではないので、猫社会なるもので規制することもなく、せいぜいその規制は人間社会の余波に過ぎない。よってその性格は本来在るべきようにスクスクとその命を全うする。まあ、せいぜい気を使うのは生存を全うするための飯のありかを継続する飼い主との関係、これに尽きるのかもしれない。 わが家の、奔放自在のプラトンちゃんなど、一切の規制を拒否してもなお憎めない本来の性格が相変わらず息づいているさまは、せっかく輝きのあった幼児がつまらない大人になるさまに比して、大いに見習うべきところもありそうである。 人間もときには日常の規制を拒否し、拒否しないまでも「てやんでえ、笑わせるぜまったく」くらいの意気を保たないと、袋小路に突進してさまざまな事件をしでかす。猫の跳躍力にくらべてもその性格の生命性は、まことヤワな抵抗力なのである。 寝る時ぐらいは人間も自由であろうが、これも猫ほど自由かは疑わしい。 この猫の寝姿こそ、人間の社会生活における<動物的>なありようとくらべて、ことさら<人間的>に見えるのは、なによりその性格の自由がほの見えるからである。 どこからどうみても、やっぱり、猫は天才である!                  Copyright (C) 2007 Ryo Izaki,All rights reserved.

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る