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松本山雅FC J1昇格への軌跡

松本山雅、サポーターとともに悲願の頂へ
飛躍の要因は反町イズムの浸透と背番号3
元川悦子 2014年11月2日
長野県初のJ1クラブが誕生

J1昇格を決めた松本山雅。5年前は地域リーグにいたクラブが劇的な飛躍を遂げた。
 10番を背負う男・船山貴之の今季J2・19得点目となる先制弾と、今季途中にベガルタ仙台から期限付き移籍してきた22歳のFW山本大貴の追加点で2−1とアビスパ福岡に勝利した松本山雅。約4分半のアディショナルタイムが過ぎ、試合終了の笛がレベルファイブスタジアムに鳴り響いた瞬間、ゴール裏に陣取った1200人を超える熱狂的サポーターから歓喜の雄たけびが上がった。

 反町康治監督は二人三脚でやってきた柴田峡ヘッドコーチと熱い抱擁をかわし、今季から故郷・松本に戻ってきた田中隼磨は2011年8月に急逝した故・松田直樹の名前と背番号3が入ったインナーシャツ姿になって号泣する。彼らは長年「サッカー不毛の地」と揶揄(やゆ)されてきた長野県にとうとう初のJ1クラブをもたらした。

「僕が松本で育った頃、Jリーグのチームができるなんて考えられなかった。自分も県外に出てつらい思いをしてきたからね」と田中も感慨深げに口にしたように、つい5年前まで地域リーグにいたプロヴィンチャ(地方の中小サッカークラブ)が劇的な飛躍を遂げたことは、まさにミラクルといっても過言ではないだろう。
躍進を支えた熱狂的なサポーター

松本山雅の躍進を支えたのは、地域の人々の温かく力強いサポートだった。
 1965年に誕生した松本山雅の前身・山雅クラブは、ご存じの通り、北信越リーグで30年以上、戦ってきた町クラブだった。01年のアルウィン(松本平広域公園総合球技場)の完成、02年のワールドカップ(W杯)日韓大会でパラグアイ代表が松本市でキャンプを実施したことなどから「Jを目指すプロチームを作ろう」という機運が高まり、04年から山雅を母体として本格的強化がスタート。05年に松本山雅FCへと改称し、06年に北信越リーグ1部、10年にJFL、12年にJ2と短期間で上のカテゴリーに次々と昇格してきた。

 JFL昇格が決まった09年12月6日の地域リーグ決勝大会最終日・栃木ウーヴァ戦がアルウィンで行われた際には、地域リーグ同士の試合にもかかわらず1万人を超える大観衆が集結。凄まじい熱気を感じさせた。当時を知る唯一の生き証人である鐡戸裕史は「これだけのサポーターに応援されているんだから、自分たちは絶対にJリーグに上がらないといけないと強く思った」と振り返る。JFL時代までは彼を筆頭に大半の選手がアルバイトをしながらのプレーを強いられており、環境も経済的にも決して恵まれているわけではなかった。

 そんな彼らを支えていたのが、地域の人々の温かく力強いサポートだった。大久保裕樹が「松本の人たちの応援は本当にありがたい。松本は僕にとってのパワースポット」だと語っていたが、サポーターの存在がなければ、現在の成功は絶対にあり得なかった。
チームを変えた松田直樹の加入

11年に加入した松田直樹の存在が選手のJに対する意識を変えた。
 そんな山雅がジャンプアップする最初のきっかけとなったのが、11年の松田直樹の加入である。02年W杯日韓大会でベスト16入りの原動力となった日本代表DFが移籍してきたことで、クラブの注目度は急激に上昇し、選手たちのJに対する意識も確実に変わった。

 松田は「俺たちはJ2に上がるんじゃない。J1に上がるんだ」と口癖のように言っていたが、当時の選手たちはまだ見ぬ大舞台をうっすらとイメージし始めたことだろう。その彼が練習中に倒れて帰らぬ人になるという衝撃的な事件が起きて、チーム全体にJ2昇格への使命感と危機感が生まれた。それが11年後半戦の快進撃、J2昇格決定につながった。この1年は山雅の重要な歴史の1ページとして未来永劫(えいごう)、語り継がれていくはずだ。
反町監督が与えたチームの規律

12年に就任した反町監督はチームに規律を与えた。
 そして、2つ目の重要なターニングポイントが、12年の反町監督就任だ。アルビレックス新潟、湘南ベルマーレをJ1昇格へと導き、08年の北京五輪代表で本田圭佑や香川真司を指導した経験を持つ日本人きっての知将は、アマチュア的ムードから抜け切れていなかったチームに規律を与え、フィジカルを鍛え直し、守備も基本から徹底的にたたき込んだ。

「最初の御殿場合宿の走りは本当にきつかった」と現在の主力である船山も喜山康平も口をそろえる。「下手なやつは走りでカバーするしかない」という指揮官の考えは確実に浸透し、3カ月で走力テストの数値が2〜3倍に跳ね上がる者も少なくなかった。

 加えて、守りの約束事を緻密に整理したことが現在に至る強みとなった。今季途中まで山雅に在籍していた小松憲太(現アユタヤFC/タイ)は「最初の合宿でミラン、ユベントス、ローマの映像を繰り返し見せられて、いい守備のイメージを植えつけられた。そのうえで、ソリさん(反町監督)の求める守り方を細かく頭に入れていった。その戦術を理解・実践できない人は使ってもらえない。選手起用の判断基準も明確で納得できた」と話した通り、個々の守備意識は目覚ましく向上した。

 もともとはアタッカーだった喜山も「ウチはうまいチームではないし、タレント性の高い選手が好まないサッカーをしていると思うけど、粘り強く守備をして戦えるチームになれたし、自分自身も泥臭く生きていく道を見つけられた」と献身的な守りが光るボランチへと変貌を遂げた。前線の船山にしても「走力がついて前からボールを追えるようになったし、余裕を持ってゴールも狙えるようになった」と攻守両面でダイナミックさを持った選手へと確実に変化していった。

選手の長所を生かしたセットプレー

昇格決定を喜ぶ反町監督。細部にこだわながら1つ1つの勝利を追い求めた。
 守備面を改善する一方、飯田真輝や犬飼智也、塩沢勝吾らヘディング力のある選手が多い点に着目し、リスタートからの得点パターンを研ぎ澄ませていったことも、J1昇格の大きな原動力となった。「ウチは足元でパスをつなぐ回数がJ2で下の方。浮いたボールに頼っているのは恥ずかしいことだ」と反町監督はしばしば自虐的に話していたが、選手の長所を生かしたスタイルを突き詰めるポリシーは一貫していた。13年8月の岩上祐三の移籍もバリエーションを広げるのに有効で、ロングスローがすべてゴールチャンスになりそうな雰囲気さえ漂わせた。

「ソリさんは本当にサッカーが好きな人」と船山もしみじみ語っていたが、この3年間でどれだけの時間を対戦相手の分析に費やしたか分からないくらいだ。そうやって徹底的に細部にこだわりながら1つ1つの勝利を追い求めていく指揮官の姿勢にチーム全体が呼応。12年の12位、13年の7位、今季の2位と着実に順位を上げることができたのだ。

 とはいえ、開幕ダッシュに成功した今季も、2シーズン連続2ケタ得点を記録していた塩沢が5月24日のジュビロ磐田戦で左アキレス腱を断裂するなど、危機がなかったわけではなかった。この負傷を受けて補強した山本も前線でなかなか起点になれずに苦労していたし、期待の大きかったサビアもシーズンを通して調子が上がらずじまいだった。FWのやりくりには反町監督も本当に頭を悩ませたに違いない。それでも現時点での通算得点を湘南、磐田に続く3位まで引き上げられたのも、セットプレーを絶対的武器にできたから。船山の爆発ももちろん大きかったが、苦しい時に飛び道具で点を取れるチームはやはり強い。
背中を押した田中隼磨の存在

松田の遺志を継いで故郷に戻った田中は、けがで選手生命の危機にひんしながらも懸命にチームを支えた【写真:アフロスポーツ】
 松田の遺志を継いでJ1昇格のために今季から故郷に戻った田中も、右ひざ半月板損傷で選手生命の危機にひんしながら、文句ひとつ言わずにチームを支えてくれた。ミスが起きれば容赦なく怒鳴ってくれる彼に背中を押されたチームメートも少なくなかった。若い犬飼や山本などはまさにその象徴だろう。厳しい雰囲気がピッチ内外に持ち込まれたことで、チームはプロフェッショナルにまた一歩近づき、とうとうトップリーグに名乗りを上げることに成功した。

 とはいえ、今季J1に初参戦した徳島ヴォルティスが30節まで終了時点でわずか3勝しかできずに1年でJ2降格を余儀なくされた通り、J1定着というのはそう簡単なことではない。似たような環境にいるプロヴィンチャのヴァンフォーレ甲府も2度の降格を味わい、今季もJ1に残留できるかどうかの瀬戸際にいる。「何度も昇格降格を繰り返しているとマンネリ化が起きて、お客さんの減少にもつながりかねない」と甲府の海野一幸会長も厳しい表情で語っていたが、急激すぎる上昇曲線を描いてきた山雅が同じ道をたどらないとも限らないのだ。

 反町監督がかつて指揮を執った新潟、あるいは12年のJ1初参戦時から上位争いを繰り広げているサガン鳥栖のようにJ1定着を果たすためには、それなりの戦力補強や攻守両面での質の向上が求められる。来季に向けての体制作りはこれからだが、指揮官の去就、現有戦力をどのくらい残留させられるかを含めてまだまだ不安要素が少なくない。山雅は年間運営費が10億円を少し超えた程度で、大規模スポンサーがいるクラブではない。J1に昇格したからといって、運営費が大幅に増えるはずもない。大胆な補強ができる環境ではないだけに、クラブとしての経済的基盤をいかに整えていくかも早急に考えるべき重要テーマだ。
環境を整え、真の頂を目指す

真の頂はJ1優勝。彼らの本当の勝負はここから始まる。
 環境面の整備も必要不可欠である。来年4月から松本市内に建設中の天然芝トレーニング場を利用できるようになる予定だが、筋トレルームやリラックスルーム、食事のできる場所が併設されるわけではない。田中が「落ち着いて筋トレをする場所もない」と嘆いていたことがあったが、選手たちがベストコンディションを維持できるような体制を整えてこそ、J1クラブにふさわしい。

 下部組織にしてもまだまだ脆弱(ぜいじゃく)だ。「新潟は10年経ってアカデミーから酒井高徳(現シュツットガルト/ドイツ)が出てきた。松本は10年かかることを5年、5年かかることを3年でやらないといけない」と反町監督も口が酸っぱくなるほど繰り返していた。地元出身の田中も「松本から代表になる選手が出て初めて本当の成功だと思う」と強調したが、そうやって優れた選手が出てくる環境が整わなければ、熱狂的なサポーターが待ち望む結果は手に入らないだろう。

 アルウィンのホームゲームでは、ゴール裏に「雷鳥は頂を目指す」という横断幕が常に掲げられている。山雅という雷鳥にとっての真の頂はJ1優勝だ。その高みを目指して、彼らの本当の勝負はここから始まる。




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