いり豆 歴史談義

2006/07/23(日)14:12

幕末シリーズ 公武合体派全盛の時代~あらすじ

シリーズ幕末史(86)

連載もの、幕末シリーズの続編です。 幕府が実権を握っていた時代、桜田門外の変までをこれまで書き継いできましたが、 次回から、それ以降の公武合体派全盛の時代について書いて行きたいと思います。 そのあらすじはこんな話です。 桜田門外の変の後、幕府の首班を担ったのは老中就任間もない安藤信正でした。 安藤が、井伊の政策に反対し排斥されていた老中久世広周に形式上幕閣首座を任せたため、この体制を安藤・久世政権といいます。 安藤は井伊の行ってきた強硬路線を否定し、穏健政策を取ることで朝廷との関係を深め、幕府の発言力を高めていこうとしました。 それが形として実現したのが、孝明天皇の妹和宮と将軍家茂との婚儀でした。 しかし、和宮降嫁は政策として効果があったとは言えませんでした。 反対に和宮の婚姻は尊王攘夷派からの反発を受ける事になります。 一方、この頃有力な意見として取り上げられたのは、長州藩・長井雅楽頭が唱えた「航海遠略策」という提言でした。 これは、朝廷が幕府に命じて艦船をつくらせ、海外との貿易を行うべきという積極的な開国論で当時、諸藩・朝廷・幕府においても歓迎・支持されました。 これにより、一時長州藩が主導的役割を果たします。 しかし、和宮降嫁に反対する水戸藩の浪士が安藤老中を襲撃する事件(坂下門外の変)が起こり安藤・久世政権が崩壊します。 これを見て、今度は薩摩藩が動きます。 長州・長井雅楽頭の「航海遠略策」に対抗する意図もあり、島津久光が兵を率いて京都に上洛してきました。 京で幕政改革の勅命を受け、それを幕府に認めさせ幕政改革を行うという計画でした。 この結果、幕府の体制が刷新され「文久の幕政改革」が行われ、開明派の大名、松平春嶽、一橋慶喜が幕政の中心に立つ事になります。 さらに、島津久光の上洛・江戸下向の旅は、様々な波乱を巻き起こしました。 久光の上洛に対しては、尊王攘夷が実行されるとの期待が高まり、尊攘派の志士たちが京に集まりました。 しかし久光の意図は尊王攘夷ではないため、久光が激怒、これを鎮圧する事件(寺田屋事件)が起こります。 又、江戸からの帰途には、久光の行列の前を通ろうした英人を切り捨てる事件(生麦事件)まで引き起こします。 こうした島津久光の周旋活動の旅は、その意図したこととは違った意味で時勢を大きく動かすことになっていくのです。 一方この間、長州を中心とした尊王攘夷派は他藩藩士との連携を進めていました。 長州では、やがて長州藩の国論を「尊王攘夷」にまとめる事に成功。 公家たちを取り込み、ついに幕府に対して攘夷実行を命じる勅命を得るに至るのです。 桜田門外の変(1860年)以降、幕府への攘夷実行の勅命が下される文久二年末(1862年)まで。 3年足らずの間の出来事です。 次回から、公武合体派が政権の主導権をもっていた時期を、主要な事件を取り上げながら、できるだけわかりやすく分析してみたいと思っています。

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