いり豆 歴史談義

2007/03/03(土)10:14

藤原兼家と花山上皇

平安時代(6)

平安時代は貴族の時代。 中でも、藤原氏が摂政・関白の地位を独占し、 さらに、藤原氏の中でも肉親同士が出世争いを繰り返しました。 今回のお話は、そんな時代の断片でもあります。 永観二年(984年) 花山(かざん)天皇が即位。 この時、関白(摂政)の地位を切望している人物がいました。 藤原兼家です。 順番からいくと兼家が関白になっていたはずだったのですが、 兄で関白だった兼通と仲が悪かったため、 関白の座を譲ってもらえなかったのです。 兼家は、とっくに関白になれていたはず。 その思いを果たすため、兼家はついに、陰謀をめぐらすことで、 出世を計ろうと考えるようになります。 兼家も、天皇家とは姻戚関係にあり、孫にあたる懐仁親王は 次の皇位後継者に決められています。 そのため、彼は今の花山天皇が退位するように仕向けました。 花山天皇は即位の時、17才、非常に色好みの性格でした。 家臣に美貌の娘がいると聞くと、必ず召し上げ、側に侍らせていました。 その中でも、抵子(きこ)という娘を特に寵愛し、やがて彼女一人にのめり込んでいきます。 やがて、抵子が懐妊。それでも、側から遠ざけるのを嫌い、側に置きつづけました。 そのため、 抵子の体は衰弱し、ついに亡くなってしまいました。 熱愛する姫の死に対して、花山天皇の嘆きは尋常ではなく、 出家して抵子の罪障を弔いたいとまで、口にするようになりました。 これに、目をつけたのが兼家です。 花山天皇の側近には、兼家の次男、道兼が仕えていました。 道兼は、花山天皇に  "私も一緒に出家しますから。密かに御所を抜け出しましょう"と 持ちかけます。 そんな道兼に説得され、ついに天皇は深夜ひそかに御所を脱出し、山科の元慶寺に向います。 これらは、もちろん、兼家の指示とおりです。 途中、花山天皇は "忘れ物をした" とか "もう一度考え直して" 等といい、 躊躇を見せますが、護衛する兵に囲まれて身動きもならず、やがて元慶寺に到着しました。 元慶寺で、花山天皇は髪を剃り落とし、戒を授けられます。 しかし、道兼は "出家する前に父と会っておかないと心残りである、父に会いに行く" といい、天皇を残したまま京に戻りました。 花山天皇は、この時はじめて、欺かれたことに気づいたといいます。 天皇を欺いて出家させたという例は、史上他になく、 自らの出世のためには、手段を選ばない、酷い話です。 天皇は花山上皇となり、それからは、諸国を巡り歩いて寺社・仏閣を訪ね、 仏教に帰依する生活を送りました。 特に、観音霊場三十三ヶ所をめぐり歩いた事が、 今に残る、西国三十三ヶ所めぐりの原形になったと言われています。 一方の藤原兼家。 思惑通りに、懐仁親王を即位させました。一条天皇です。 兼家はその後、摂政、太政大臣、関白などを歴任して、 藤原政権の基盤をさらに固めていきました。 「この世をばわが世とぞ思う」 と詠った藤原道長は、兼家の四男にあたり、 藤原政権の最盛期を創り出していきます。 又、兼家の妻は、兼家との生活や兼家のもう一人の妻との確執など、 二十年間にわたる身近な出来事を日記に書き残しました。 「蜻蛉日記」と呼ばれるものです。 彼女は兼家の妻というより、右大将道綱母の名で知られ、 「蜻蛉日記」は、その後の女流日記文学隆盛のさきがけとなった作品であると言われています。

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