カテゴリ:シリーズ幕末史
幕末、長州藩は極秘のうちに、5名の留学生をイギリスに送っていました。 尊攘派の勢いが、最も強かった時期。 文久3年のことです。 この留学生派遣を企画したのは、松下村塾系の家老、周布政之助。 そして、桂小五郎・久坂玄端でした。 彼らは、攘夷を主張していた中心人物であるにもかかわらず、 一方では、西洋の進んだ近代文明を取り入れて、 列国に対抗できる力を持つことが必要である、という認識を持っていました。 そして、この留学生の中には、井上聞多(後の外務大臣・馨)と 伊藤俊輔(後の総理大臣・博文)の2人も入っていました。 井上と伊藤は、落ちこぼれの放蕩書生という感じで、 周布の求める留学生候補には、全く入っていなかったのですが、 井上聞多が、どこからか、この話を聞きつけて、 半分、周布を脅すようにして、強引に留学生にもぐり込んだのでした。 井上聞多は、長州藩の名家の出身。 はねっかえりな性格で、吉田松陰の門下では無かったものの、 高杉晋作ら松陰門下生とも、親しくつきあっていました。 一方、伊藤俊輔は、貧しい百姓の出身。 桂小五郎の従者を務めたことで、やっと足軽程度の身分を得ることが出来た人です。 わずかながら、松陰門下であった時期があったため、 松下村塾グループの仲間入りをしていました。 この2人は、身分が全く違うものの、波長が合うのか大の仲良しで、 共に、尊王攘夷活動に参加し、高杉・久坂らと 品川の英国公使館焼討ち事件にも、加わっていました。 そして、2人とも、なにより遊郭遊びが大好きで、 藩の公金を使って遊び回ったりしていた仲でした。 周布もこの2人をメンバーに入れるのに、不安はあったでしょうが、 結局、彼らを含めた5人の人選を終え、イギリスへと送り出します。 彼らは、服と髪型を洋装に改め、横浜を蜜出港、 上海で船を乗り継ぎ、ロンドンへと向いました。 井上と伊藤。 元々、この2人は攘夷家でした。 しかし、海外に出て、西洋近代文明の先進性と、強大さを目の当たりにした時、 大きな衝撃を受けます。 井上聞多などは、上海で西洋の艦船と、立ち並ぶビル群を見ただけで、 「もう、攘夷はやめた。」 と叫んだといいます。 伊藤も、それと同様の感慨を持ちました。 2人は、またたく間に、攘夷から開国洋化主義へと 考えを改めていったのでありました。 ロンドンに着いてから、2人はイギリス人夫婦の下宿に泊り込み、 英和辞典を頼りに、英紙タイムズを読むなどして、 英語の勉強に打ち込む日々を送りました。 ところが、そんなある日。 いつものようにタイムズ紙を読んでいると、 ”長州が下関で外国の艦船を砲撃” ”薩摩がイギリス艦隊と交戦” などの、記事を目にします。 2人は、瞬時に 「藩の無謀な攘夷を、やめさせなければいけない。」と 思い立ちました。 このままでは日本は滅びる、という危機感を抱き、 即刻、日本へ戻ることを決意します。 他の3人の留学生は、途中で留学をやめることに反対しましたが、 2人の決意は変わりません。 独断での帰国。 2人のイギリスでの留学期間は、結局、半年あまりでありました。 しかしながら、留学をやめて帰国した事は、 この2人が、その後、明治政府の中心人物となっていくことにつながっていくのです。 元治元年(1864年)6月。 井上と伊藤は、横浜港に密入国。 日本に戻ってきました。 ちょうど、池田屋事件が起こる直前。 蛤御門の変の、一ヵ月半前のことです。 ここから、井上・伊藤両名は、長州藩を説得すべく 決死の思いで長州へ戻って行く事になります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[シリーズ幕末史] カテゴリの最新記事
|
|