いり豆 歴史談義

2007/07/08(日)21:59

長州の俗論党政権

シリーズ幕末史(86)

歴史とは、なかなか、直線的には進まないもの。 四カ国艦隊との攘夷戦を終え、 攘夷から開国へと、藩論を転換した長州藩でしたが、 振り子が、大きく反対側に振れるように、 次には、保守派勢力が台頭してきます。 幕府から征長令が出され、その対応に迫られる中で、 佐幕派の重臣、椋梨藤太を領袖とした保守派が 藩政を掌握していきます。 俗論党政権と呼ばれるものです。 この政権は、封建制度の維持・継続を主張する守旧派の家老や上士層を、 支持基盤とし、幕府との関係を重視する政策を進めていきました。 さらに、彼らは、 藩がこのような逼塞状態に追い込まれたのは、 攘夷派(改革派)に藩政を任せたためであるとして、 尊王攘夷派の閣僚・藩士を、徹底的に糾弾しはじめます。 元治元年(1964年)9月。 攘夷派が占めていた、現状の藩閣僚をすべて罷免し、 彼らを次々と野山獄に投獄、さらには、斬刑に処していきました。 尊王攘夷派の藩閣僚は、藩政の表舞台から完全に姿を消すことになります。 尊王攘夷派の中心閣僚であった、家老の周布政之助も、 こうした動きが出始めるや、すぐに、 先んじて、割腹自殺を遂げました。 井上聞多も狙われました。 「井上は藩を滅ぼそうとしている。」 彼は、幕府に恭順する事にも反対していたため、 佐幕派からも睨まれていたのです。 山口郊外の袖時橋付近。 君前会議を終えて、夜道を歩いているところを 佐幕派の刺客数名に襲撃されます。 聞多はずたずたに斬られ、血みどろで、意識不明の重態となりますが、 全身50針以上を縫う手当を受けて、 なんとか、一命はとり留めました。 残る大物は高杉晋作。 晋作は、自分にも危険が迫ることを、察知していました。 彼は、いち早く藩を抜け出し、九州福岡へと逃亡。 ここで、尊攘派勢力を結集して、 再起を図るための、画策をはじめます。 俗論党の粛清は、さらに続きました。 尊王攘夷主義の部隊、奇兵隊や諸隊に対してです。 彼らは、これら諸隊をも解散させる機会を狙っていました。 この時の奇兵隊総督は、赤根武人。 彼は、隊の存続を図るためには、一時的にも俗論党と手を握るべきであると考え 俗論党幹部と、接触をとり始めます。 奇兵隊や諸隊も一時のような勢いを失ってきていました。 明治維新まで、あと3年あまり、 しかし、この時点では、 討幕勢力は、まだまだ、幕府を脅かす大きな勢力にはなっていません。

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