いり豆 歴史談義

2007/09/17(月)17:25

第一次征長戦

シリーズ幕末史(86)

西郷隆盛はワシントンとナポレオンを尊敬し、 自宅の居間にも2人の肖像画を掲げ、 2人の話をする時も敬称で、"殿"をつけて呼んでいたそうです。 その中でも、特に尊崇していたのがワシントン。 「ナポレオン殿は、功業の面では大英雄であったが、  後には、私欲に心を汚しなされて、功業ついに空しくなられた。  ワシントン殿は、終始一貫私心なく、誠に美しい心事で生涯を終えられた。」 西郷という人は、無欲・清廉という事を第一義に考えていた人で、 ワシントンが、自己の持ち得た権力を一族に継承させることなく、 一代限りの大統領制を始めたことから、 彼を理想の人として考えていたのでしょう。・・・ 以上は、余談でありますが、 第一次征長戦において、西郷はめざましい活躍をみせます。 生涯の中でも、この頃が、彼の全盛期のひとつではなかったか、 そんな感じすらします。 第一次征長戦。 蛤御門の変で、御所に対し兵を向けた長州藩を懲罰するために、 幕府が諸藩の兵を集めて出兵した事件です。 西郷は、これに参謀として参加し、 その戦略・工作の一切を、彼が取りしきりました。 元冶元年(1864年)7月、幕府は長州藩追討の勅命を朝廷から受け、 在京の諸藩に対し、長州出兵命令を下します。 征長軍総督は、尾張藩主徳川慶勝。 慶勝は何度も固辞しましたが、説得されて、 結局、無理やり押し付けられたような形で就任しました。 そして、参謀には、薩摩藩から西郷隆盛が選ばれます。 10月、大坂城で軍議が開かれました。 征長戦をいかに進めていくべきか、 総督の徳川慶勝は、その方針・考え方について、西郷に意見を求めました。 ここで西郷は、この長州征伐のように国内で内戦を行う事は無意味であることを述べ、 そうではなく、長州の支藩である岩国藩に長州藩を説得させ、 武力を使わずに、恭順させるという構想を示しました。 西郷の頭の中には、幕府が考えているように、長州藩を潰すという考えはすでになく、 又、内戦により、欧米列強につけ込まれる隙を与えてはいけないということも念頭においていました。 これらの考え方は、先の勝海舟との会談により、啓発されたことでもあります。 西郷は、それが一番の良策であるということを総督の慶勝に進言しました。 慶勝も、その進言を諒解し、征長に関わる一切の工作を西郷に委任することになります。 ここから西郷は、広島・岩国・下関・大宰府等へと諸方を廻り、 息つく間もなく、周旋・説得に走りまわりました。 まず、岩国では、岩国藩主の吉川監物と会談。 西郷は吉川に対し、ここにきて、無意味な抵抗を行うことは愚策である旨を話し、 幕府に恭順すべきであると説得を行いました。 そのための条件としては、 一、蛤御門の変の首謀者、三人の家老、及び四人の参謀を処罰すること。 一、八月十八日の政変で長州に落ち延びた、三条実美ら五卿を他藩に移すこと。 一、山口城を破却すること。 (五卿は、元々七卿でしたが、1人は病死、1人は行方不明になり今は5人が残っていました。) これらの条件を守るならば、 征長軍を解兵させるよう、総督に働きかけると約束したのです。 吉川は、その西郷の提案を受け入れ、 本藩の長州藩に対し、西郷が提示した条件を遂行するよう説得する事になりました。 この頃、長州藩では、尊王攘夷派の勢力は全く衰え、 俗論党と呼ばれる保守派勢力が、藩政を掌握していました。 吉川は、西郷からの意向を長州俗論党首脳に伝え、説得します。 長州藩もこれを受け入れ、 蛤御門の変の首謀者であった、福原越後・益田右衛門介・国司信濃の3家老を自害させ、 その首を持って、広島の征長総督府に行き、陳謝しました。 ただ一点、五卿の移転に関してだけは、なお、事態が紛糾します。 奇兵隊などの、尊王派があくまで抵抗を示したためです。 しかし、西郷はここでも、下関や大宰府などを飛びまわって、 説得につとめ、結局、五卿も大宰府へ移されることが決まりました。 12月、総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられ、 第一次征長戦は終了します。 このように、第一次征長戦は、結局、西郷のとりまとめにより、 実際に戦闘が行われることもないままに、終了しました。 又、幕府に恭順を示したことで、長州藩も、そのままの形で残されることになりました。 しかし、このことが、長州藩を討幕勢力として、生き返らせることになっていくのです。

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