いり豆 歴史談義

2007/11/23(金)07:56

桂小五郎の逃亡生活

シリーズ幕末史(86)

桂小五郎は、蛤御門の変の後、半年あまりの間、逃亡生活を送っていました。 幕府からは、朝敵となった長州藩の中心人物として行方を探索され、 長州にも、親幕府政権が成立したために帰ることが出来ず、 身を寄せる場所がなかったのです。 小五郎は、その間、芸妓の幾松や町人の甚助などに支えられ、 京都~但馬出石~城崎と場所を移りながら、世を忍び、潜伏を続けました。 今回は、そうした波乱に満ちた、桂小五郎の潜伏生活の様子をたどります。 元治元年(1864年)6月。 蛤御門の変で、長州の軍が潰滅し、京の町が戦火につつまれる中を、 桂小五郎は、一人、京を脱出しました。 その後、数日して、再び京に潜入。 小五郎は、鴨川の橋の近くで、乞食のような身なりをして隠れ住みます。 しかし、小五郎は、今でいえば指名手配の要注意人物。 新撰組などから、執拗な探索を受け続けました。 そんな中で、小五郎を支えたのが、 京・三本木遊郭の芸妓、幾松でした。 幾松は、命を狙われていた桂小五郎を庇護し、 新選組に追われる小五郎を、機転を働かせて、度々かくまったといいます。 小五郎の食事についても、商家の女になりすました幾松が、 橋の上から握り飯の入った包みを、そっと投げ落として渡していました。 しかし、小五郎も、いつまでも、京に留まっていることは危険であると感じていて、 何とか、関所を超え、京から抜け出すことを考えていました。 そこで、小五郎は、懇意にしていた対馬藩士に相談し、 その下僕をしていた広江甚助という町人に、協力を依頼します。 甚助は、小五郎が自分の援助を必要としている事を聞き、 小五郎を、京から脱出させて、かくまうことを決意しました。 甚助は、小五郎を、甚助の郷里出石に逃れさせる段取りを進めていきます。 小五郎を船頭に化けさせて、京を脱出、関所もうまく通り抜けて、 小五郎を、無事、出石に連れて行く事に成功しました。 この後も、甚助は献身的に小五郎をかくまい続けます。 出石では、最初、知人の家に小五郎を住まわせ、 次いで、会津、桑名の藩士が小五郎の探索にきたという噂を聞くと、 出石から城崎の湯治宿に小五郎を移動させました。 時には、広江家ゆかりの寺に預けたり、 又、ある時は、「広江屋」という荒物屋を小五郎に開かせたりしました。 小五郎も、この時期には、甚助の妹の婿と称し、広江屋孝助と名乗っていたといいます。 そうした、ある日。 小五郎は、高杉晋作が藩内でクーデターを起し、俗論党政府を打倒したとの噂を聞きつけます。 小五郎は、長州の状況を確認したいと考え、甚助に下関に行くよう頼みました。 さらに、この時、自分の居場所を、村田蔵六にだけ伝えるよう指示しました。 蔵六は、下級藩士ではありましたが、小五郎は彼に全幅の信頼を置いていたのです。 甚助は、下関へと向かい、京から逃れてきていた幾松と面会。 又、村田蔵六に会って、小五郎が但馬に潜んでいることを伝えました。 やがて、小五郎が無事でいることを知った長州藩は、 一日も早く、小五郎を藩に呼び戻そうとしました。 成立ほどない長州新政権は、 藩を背負って立てる、首相のような役割が果たせる政治家を切望していたのです。 結局、甚助と幾松の2人が、出石まで小五郎を迎えに行くことになりました。 慶応元年(1865年)2月。 桂小五郎が、長州に戻ってきます。 帰国後の小五郎は、事実上藩政府の頂点に立ちました。 それとともに、それまで無名であった村田蔵六(のち大村益次郎)を、 いきなり、軍務大臣に相当する軍政の責任者に抜擢。 彼は、この蔵六をして、藩軍の整備にあたらせ、 来たる対幕戦の総司令官にしようと考えていました。 ここから、長州の倒幕に向けての軍制改革が、本格的に進められることとなっていきます。 ところで、小五郎の逃亡を必死に助けた甚助。 人から頼まれたというだけで、何の義理もなかったはずの小五郎に対し、 驚くほど親身になって、彼をかくまい、生活の面倒を見続けました。 多くの危険はあっても、利益を受けることのない、まさに、無償の善意でありました。 小五郎は、甚助の人情により、この苦境から救われたということができるでしょう。 小五郎も甚助の恩を終生忘れることがなく、 明治になってから、甚助が大阪で商売を始めたときには資金を提供し、 「広江屋」の商号と孝助の名も与えたといいます。 そして、もう一人、芸妓の幾松。 こちらは、その後、桂小五郎と結婚。 後の木戸孝允夫人・松子となります。

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