いり豆 歴史談義

2009/05/03(日)17:55

「いろは丸」事件

シリーズ幕末史(86)

土佐藩の後ろだてを受けることになり、「亀山社中」は「海援隊」と改称。 その最初の仕事は、蒸気船「いろは丸」による、 長崎から大坂まで物資を運ぶというものでした。 しかし「海援隊」は、この最初の航海から衝突事故に見舞われることになりました。 「いろは丸」事件と呼ばれるもので、 この事件は、日本初の蒸気船同士の海難事故であり、 又、近代海難裁判の先駆けとなった事件でもありました。 以下、「いろは丸」事件の概略です。 海運に使える船を入手するため、 方々から情報を集めていた坂本龍馬。 ついに、入手できたのが伊予大洲藩の蒸気船でした。 これも、元はといえば薩摩藩所有の船だったのですが、 薩摩が別の大型船を入手するために手放したものを 龍馬と薩摩の五代才助の周旋により大洲藩が購入。 この船を「海援隊」が運用するということで話がまとまったのでした。 龍馬は、この船を「いろは丸」と命名。 早速、物資輸送の仕事が入ってきます。 慶応3年(1867)4月19日に長崎を出港。 諸藩に売り捌く武器や商品を満載して、大坂を目指します。 しかし、4月23日夜半のこと、 岡山の六島沖で、突如、大きな軍艦と衝突しました。 相手の船は、紀州藩の「明光丸」。 「いろは丸」の6倍ほどもある巨船で、 これが「いろは丸」の右舷に激突したのです。 しかも、何を思ったのか、一旦、後退したあと、 さらに猛スピードで再度衝突しました。 龍馬を始めとする乗員は、「明光丸」に乗り移って無事だったものの、 「いろは丸」は自力で航行出来なくなり、 近くの鞆の津まで曳航してもらうことになります。 しかし、大破した「いろは丸」は、結局、それに堪えられず積荷もろとも沈没。 ここから、龍馬の「海援隊」の紀州藩を相手にした賠償交渉が始まります。 龍馬にしてみると、やっとの思いで手に入れた蒸気船で、しかも、その初めての航海。 これまでにも、数度にわたって船を失っているだけに、 龍馬にとっては、決死の交渉となりました。 このあたり、龍馬の人生は、なぜか、不運に見舞われ続けています。 たとえ、天下の大藩、御三家である紀州藩とはいえ、負けるわけにはいきません。 龍馬は必死でした。 龍馬は、航海日誌や海路図の提出を求め、 さらに、当時の国際法である万国公法に基づいて、 責任の所在と、徹底的な原因追及をしていきます。 このあたりが、近代海難裁判の先駆けと呼ばれているゆえん。 交渉は昼夜を問わず続けられ、激しい議論が繰り返されました。 その結果、 ・明光丸は、2度にわたり衝突した。 ・衝突した時刻に、紀州藩は、見張りを立てていなかった。 この2点を紀州藩側に認めさせます。 しかし、賠償問題についてはここで決裂。 紀州藩は、航路を急ぐと称して長崎に向けて出航していきました。 龍馬もこれを追いかけて長崎へ。 この後、交渉の舞台は長崎へと移っていきます。 なおも、膠着状態が続いていく賠償交渉。 しかし、これを決着させたのが後藤象二郎でありました。 後藤象二郎は、紀州藩の勘定奉行である茂田一次郎とのトップ会談に持ち込み、 この会談の席で、終始、紀州藩側を議論で圧倒。 ついに、紀州藩側に非があることを認めさせました。 そして、賠償額を設定。 ここには、薩摩藩の五代才助が周旋に入り、 7万両の賠償を紀州藩が支払うことで、 事件は、ようやく決着しました。 この間、紀州藩は、執拗に食い下がってくる龍馬に対して恨みを抱き、 事件をうやむやのうちに解決させようとして、 龍馬の暗殺まで企てたと言われています。 後の龍馬暗殺事件には、色々な説がありますが、 そのうちの紀州藩犯行説の根拠となっているのがこの事件。 龍馬暗殺の直後においては、 海援隊士が、紀州藩士に対して仇討ちと称して斬りこみをするなど、 龍馬暗殺は紀州藩の犯行であると、当時、考えられていたほどでした。

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