いり豆 歴史談義

2010/02/07(日)08:01

世界の海援隊でもやらんかな

シリーズ幕末史(86)

慶応3年(1867年)10月。 大政奉還成る、の知らせを聞いた坂本龍馬は、 早速、大政奉還後の政権の職制について、その原案作りに着手しました。 「新官制擬定書」(「職制案」とも)と呼ばれているもので、 三条実美の家士である尾崎三良とともに作成したものと言われています。 その中では、関白・内大臣・議奏・参議といった官名や、 その職に誰をあてるかという、具体的な人名まで記されていました。 この職制案には、2種類の記録(「坂本龍馬海援隊始末」と「尾崎三良自叙略伝」) が残されているのですが、 それらを折衷して、要約してみました。 関白 ----- 三条実美 内大臣 --- 徳川慶喜 議奏 ----- 有栖川宮、仁和寺宮、山階宮(宮家)         正親町三条実愛、岩倉具視、東久世通禧、中山忠光(公卿)         島津久光、毛利敬親、松平春嶽、山内容堂、鍋島閑叟、伊達宗城(諸侯) 参議 ----- 小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通(薩摩)         木戸孝允、広沢真臣(長州)後藤象二郎、福岡孝弟(土佐)         三岡八郎(越前)横井小楠(肥後) この中でポイントは、やはり、徳川慶喜の内大臣でしょう。 「坂本龍馬海援隊始末」の方では、内大臣の項目はなく 慶喜の名は出てきていないようです。 諸説あるところですが、龍馬は、慶喜をこの政権の実質の実権者である内大臣にしようと 考えていたのではないかと、私は思っています。 また、「尾崎三良自叙略伝」の方では、参議のところに龍馬の名前が入っているそうです。 翌11月、 龍馬は、新生国家の方針を示した「新政府綱領八策」という文書をまとめました。 これは、先の「船中八策」とほぼ同じ内容で、 大政奉還の項目だけが、すでに実現しているために省かれ、まとめ直されたものでした。 そして、この中でも、新政権の中心人物について書かれているのですが、 ここでは、 ○○○自ラ盟主ト為り と、その名は伏せられています。 これは、新政権の中心人物について、人に説明する時に、 薩摩藩士には島津久光、土佐藩士には山内容堂、幕臣には徳川慶喜と 状況に応じて話が出来るようにしたものなのかも知れませんし、 あるいは、10月の「新官制擬定書」では、慶喜を推してはみたものの その後、反発があるなどのことにより、 盟主の表現を、玉虫色の表現に変えたということなのかも知れません。 それにしても、大政奉還成就の時に、龍馬が喜んでいたことなど、 これまでの経緯から察して、 龍馬は、慶喜を新政権の中心として考えていたのではないかと 私には、思われるのです。 ところで、この「新官制擬定書」を書き上げた時、 龍馬が、西郷隆盛に、その意見を聞くため会いに行ったそうです。 その時の話として有名なエピソードがあります。 しばらく、うなずきながら、これを見ていた西郷は、 やがて、この中に龍馬の名がないことに気がつきました。 それを言うと、龍馬は、 「私は、役人が嫌いだ。時間通りに家を出て、時間通りに帰るなど耐えられない。  土佐には、私の他に役人になるべきものは、たくさんいる。」 「役人にならないなら、何をするのか」と西郷 その時、龍馬は 「世界の海援隊でもやらんかな・・・」 とうそぶいたと言います。 別の話ですが、龍馬は、お龍に対しても、 「一戦争終われば、山の中にでも入って安楽に暮らすつもりで、 役人になるのは嫌だ」と話していたといいます。 龍馬には、この国を良くしたいという願いはあっても、 政権の重職につきたいという欲求はなかったのでしょうね。 この「新官制擬定書」は、後に、後藤象二郎から岩倉具視の手に渡り、 やがて、王政復古後に作られることとなった新政権の職制の原型にもなったと言われています。 龍馬は、この11月に暗殺されてしまうことになりますから、 これが、龍馬の生涯における、最後の輝きとなったといえるのかも知れません。

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