2012/03/18(日)17:09
二条城の歴史
絢爛華麗な桃山文化の粋、二条城。
また、この二条城という城は、幾度か歴史の転換点の舞台となってきた場所でもあります。
城といっても、実際に戦いの場所になったということはなく、
主に、徳川幕府の儀典の場として利用され、また、京都における幕府の威光を示す象徴として、
その存在を示してきました。
今回は、以前に、二条城に行った時の写真を交えながら、
二条城の歴史についてまとめてみたいと思います。
二条城が築城されたのは、1603年(慶長8年)のこと。
もともとは、徳川家康が征夷大将軍に任命されるにあたり、
その京都における居館として、築かれたものでありました。
築城については、畿内の諸大名に負担を命じ、
城の縄張りについては、築城の上手といわれた藤堂高虎が担当しました。
二条城が築かれた頃といえば、大坂に、まだ、豊臣氏があり、
徳川と豊臣の間での桎梏が続いていた時期でもあります。
加藤清正、福島正則などといった、豊臣恩顧の大名が身辺の警護にあたりながら、
豊臣秀頼が大坂城を出て、家康との対面を果たしたのも、この二条城でありました。
その後に起こった大坂の陣。
この時には、二条城が徳川方の軍議の場所となりました。
豊臣滅亡後、今度は、二条城が公武融和の儀典の場として、脚光を浴びることになります。
それが、二代将軍・秀忠の娘、和子(東福門院)の後水尾天皇への入内。
二条城は、この時に、様々な儀典の舞台となり、
そうした中、やがて、徳川の姻戚となった後水尾天皇が、二条城への行幸を果たすことになります。
二条城の中でも、国宝に指定されているのが、この二の丸御殿。
二の丸御殿が出来上がったのは、1626年(寛永6年)のことで、
後水尾天皇が行幸されるのにあたり、二条城を大改築した時に建てられたものでありました。
二の丸御殿の内部は、まさに、桃山文化の宝庫ともいえる造りになっていて、
特に、大広間-蘇鉄之間-黒書院-白書院と続く各部屋の装飾は絶品で、
一枚板を透かし彫りにして、両面で違う模様になるようにした欄間とか、
花熨斗形の釘隠し、狩野派の障壁画などには、目をみはるような華麗さがあります。
二の丸御殿の西側に広がっているのが二の丸庭園です。
この庭は城郭建築における庭園の代表作とも云われていて、
小堀遠州による作庭であるとされています。
小堀遠州は、寛永の二条城大改修に際しては、その作事奉行も勤めていて、
二の丸御殿の美の世界というのも、遠州のプロデュースによる部分が大きいように思われます。
また、この二の丸庭園も、後水尾天皇行幸に合わせて造られたものなのでありました。
本丸の西南にある、二条城天主跡です。
元々は、二条城にも五層からなる天主が聳えていました。
しかしながら、1750年(寛延3年)に落雷により焼失。
それ以後、再建されることはありませんでした。
やがて、その後、二条城は、幕末になり、再び歴史の大舞台に立つことになります。
1863年(文久3年)には、徳川家茂が将軍として、230年ぶりに入城。
1867年(慶応3年)には、二条城大広間が、徳川慶喜・大政奉還発表の舞台にもなりました。
ほどなく、江戸幕府は消滅したわけですから、
二条城は、徳川幕府の日の出と日の入り、両方の舞台になったということになります。
明治維新後、二条城は新政府により接取され、
1868年(明治9年)からは、一時、ここが京都府庁となりました。
さらに、その後は宮内省の管轄下に移ることとなり、
それ以降、この城は「二条離宮」と呼ばれることとなりました。
「二条城」と、一般には呼ばれていますが、
実際は、「元離宮二条城」というのがその正式名称。
これは、一時、宮内省の管轄であったという歴史があったためなんですね。
1939年(昭和14年)になり、宮内省は、「二条離宮」を京都市に下賜。
現在は、京都市の所有となっています。
平成6年には、世界遺産にも登録された二条城。
今も、訪れる人が絶えない京都を代表する観光名所のひとつになっていますね。
二条城というのは、様々な歴史と桃山美が凝縮されているということが印象的で、
まさしく、文武と格式を兼ね備えた、貴重な文化遺産であると云えるのだと思います。