いり豆 歴史談義

2013/02/18(月)22:56

秀吉没後の豊臣家 ゆかりの地を訪ねて

シリーズ京歩き(61)

露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速の事も 夢のまた夢 有名な秀吉辞世の歌でありますが、 でも、実際に、秀吉が死を迎えたのは、伏見城の一室においてでありました。 死の間際、「返す々々、秀より事、たのみ申候」と遺言を書き残し、 五大老・五奉行を集めて、誓書を書かせたといいますから、 秀吉が死に際して、思い残すことというのは、 やはり、自分が亡き後の豊臣家のことだったのでしょう。 当時、朝鮮との戦いが継続中であり、 また、秀吉死すということが知れると、不測の事態が起こらぬとも限りません。 そのため、秀吉の死は秘匿され、 秀吉の亡骸は、人知れず、深夜の内に、伏見城から運び出されることになります。 五奉行のひとり前田玄以と僧と人足数名により、 秀吉の亡骸は、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰まで運ばれ、 ひっそりと、葬られることになりました。 華麗な天下人の最期とは思えない、あまりに淋しげな野辺送りでありました。 *** この秀吉が葬られた場所は、今も、豊国廟として残されています。 阿弥陀ヶ峰の山頂近く、先日、そこを訪ねてみました。 幾重にもつらなる石段。 石段とはいえ、ちょっとした山登りのようであります。 豊国廟までは、全部で565段あるそうですが、 登りきるのは、やはり、相当きついです。 何度も何度も休みながら、黙々と登っていきます。 やがて、唐門が見えてきましたが、廟は、まだこの先でした。 秀吉の死が公表された後には、この参道近くに豊国神社が建てられ、 秀吉は神格化され、豊国大明神として祀られました。 創建の当初は、お参りにくる人も多く、 このあたりも、人出が絶えなかったということですが、 しかし、豊臣家が滅亡してからは、徳川家によって廟も破壊され、 この周辺も荒れ果てていたのだといいます。 豊国廟が再び整備されたのは、明治時代。 現在の豊国廟は、明治期に再建されたものであります。 秀吉の墳墓に着きました。 墳墓の上には、これぞ稀代の英雄という感じの 立派な石塔が建てられていました。 墓前で静かに手を合わせ、豊国廟を後にします。 豊国廟のあと、方広寺へと向かいました。 方広寺というのは、前回の日記にも書きましたが、 大仏を建立するため、秀吉により創建されたという寺院。 でも、方広寺は、大仏というよりも、 大坂の陣が始まるきっかけとなった鐘銘事件の舞台となったということの方が 良く知られているのかも知れません。 方広寺の本堂です。 往時は、この周辺一帯を寺域としていた広大な寺院であったのですが、 現在は、本堂と鐘楼が残されているのみ。 これが、あの方広寺かと、がっかりしてしまうほど、 今では、小さな寺院になってしまっています。 関ヶ原の戦いのあと、天下の実権を握った徳川家康。 一方の豊臣家はといえば、 名目上、主家という形が続いているとはいうものの、 実質は、大坂を領するだけの一大名になってしまっていました。 それでも、さらに徳川政権を盤石のものにしたい家康は、 なんとか、口実をつけ、豊臣家を討伐してしまおうと考えていました。 そこへ、家康が持ち出してきたのが、方広寺の鐘銘についての難題です。 慶長17年(1612年) 方広寺の大仏が完成し、家康の承認を得て、開眼供養の日を待っていたある日のこと。 突然、家康から開眼供養を延期するようにという命令が届きます。 それは、大仏開眼に合わせ新たに作られた梵鐘の銘文の中に 徳川家をおとしめる文言が含まれているというもの。 「国家安康」「君臣豊楽」 国家安康は、家康の家と康の文字を分断する不吉な語句であり、 君臣豊楽は、豊臣を君主とするということを意味している。 これは、家康と徳川家を冒瀆するものである。 言い掛かりとしか言いようがない、明らかなこじつけではあるのですが、 この件を弁明するため、豊臣家家老の片桐且元が家康のもとを訪ね、 それが、こじれていったことが、やがて、大坂の陣へとつながっていくことになります。 方広寺には、その国家安康の鐘の実物が、今も、残されています。 この鐘、国の重要文化財にも指定されています。 「国家安康」「君臣豊楽」の箇所には、それとわかるように、色がつけられていました。 鐘楼の天井は、花格子になっていて、彩色画が描かれています。 きっと、かつての鐘楼内部も、華やかに彩られていたのでしょうね。 歴史を動かすことになった、この梵鐘を間近に見ることが出来る、この方広寺は、 なかなかに感慨深いものがあります。 大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、 徳川氏は、豊臣を半ば罪人であるかのように扱い、冷たい処遇を続けました。 豊臣家にゆかりの建物、豊国廟や祥雲寺、方広寺なども、 破却されたり、あるいは縮小されたりしました。 ところが、明治維新後になると、今度は、再び豊臣家が見直されることになります。 それは、徳川が逆臣となったことの裏返しでもあるのですが、 豊臣は、朝廷に対して幕府を作ることをしなかった忠臣であるとされ、 今度は、豊臣家が称揚されるようになっていきます。 方広寺に隣接し、建てられている豊国神社。 明治13年(1880年)明治政府によって、この地に再建されたものです。 豊国神社のシンボルともなっているのが、この華麗な唐門。 南禅寺金地院から移設されたものということですが、 元は伏見城の唐門だったのだといいます。 この欄間や扉の装飾など、細部まで贅を尽くした豪華なもので、 国宝にも指定されています。 豊臣家の栄華のあとを偲ぶことができる、華麗な造形であると云えますね。 秀吉の生涯を振り返ってみると、まさに波乱万丈。 乱世の英雄の栄枯盛衰は、常のこととは言うものの、 死してもなお、その評価が二転三転したりもします。 その栄華のあとを見るにつけ、逆に、はかなさを感じたりもします。 秀吉ゆかりの地を、いくつか訪ねてみて、 その偉大さと、はかなさと、愚かさと、 色々なことを感じた、そんな京の旅でありました。

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