飛鳥の旅2 ~歴史と史跡を訪ねて
飛鳥を代表する遺跡といえば、石舞台古墳。日本最大級の石室を持つ方形墳で、その総重量は、なんと2,300トンもあるのだそうです。古墳ですから、元々土に覆われていたわけですが、上の土は古くに失われて、天井岩が露出し大きな舞台のような姿になっています。そして、ここに葬られていたのは、飛鳥時代きっての実力者であった蘇我馬子であったのではないかと云われています。この馬子が活躍した時代というのは、百済から仏教が伝来してきて間もない頃のことで、蘇我氏と物部氏との間で、仏教を受け入れるかどうかの争いが繰り広げられていました。崇仏派であった馬子は、排仏派の物部守屋との戦いに臨むにあたって、この戦いに勝利したら仏寺を建立すると誓っていたといい、そして、戦いに勝利した馬子により、建立されたのが飛鳥寺(法興寺)でありました。飛鳥寺は、本格的な伽藍を備えた日本最古の本格的仏教寺院であり、半官的な位置づけを持つ蘇我氏の氏寺でもあったのです。飛鳥寺です。でも、さすがに今は、創建当初の大伽藍の面影はありません。ここの本尊は、飛鳥大仏と称されている「銅造釈迦如来坐像」。飛鳥時代を代表する仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)の作であるとされています。飛鳥大仏です。これが現存する日本最古の仏像であるといわれています。しかし、長い歳月の間に火災などで甚大な損害を受けて、補修が繰り返され、製作当初からの状態で残っているのは、顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指だけなのだそうです。それでも、これが日本の仏像文化の出発点。製作当初は、全身が金箔でおおわれていたといい、キラキラとした神々しさに衝撃を受けた当時の人たちが、仏教に魅せられていったであろうことが、想像できます。ところで、もう一人、飛鳥時代を代表するスーパースターといえば、何と言っても聖徳太子。聖徳太子は、蘇我馬子と協力しつつ、「十七条憲法」など仏教的道徳観に基づいた政治を行ったことで知られています。この聖徳太子が生まれた場所とされているのが、ここ橘寺です。元々、この場所は、太子の父、用明天皇の離宮、橘宮があった場所であったといい、太子は、厩戸の前で出生したため厩戸皇子と名付けられたと、伝説ではありますが、そう言い伝えられています。聖徳太子が、推古天皇の命により勝鬘経(しょうまんきょう)というお経をこの地で講義した時、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠からは光が輝いたという不思議な奇瑞が起こったそうです。天皇はこれに驚き、この地に寺を建てるように命じたとされ、聖徳太子は、これに従い離宮を改造し、寺を建てたと寺伝は伝えています。聖徳太子については、種々様々な伝説が、今に伝わっていますが、これも、その一つですね。ちなみに、この寺の本尊はいわゆる仏像ではなくて、聖徳太子が勝鬘経を講じている姿の「聖徳太子勝鬘経講讃像」が本尊となっています。さて、飛鳥時代で一番大きな事件といえば、「大化の改新」ですね。645年、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を政権から追い落としたというクーデター事件。私も学生の頃には、この事件を「大化の改新」であると習いましたし、一般的にも「大化の改新」として知られていますね。しかし、今では、このクーデター事件自体は、乙巳(いっし)の変という言い方が正確であるということになっていて、高校の教科書でも、この事件の表記については「乙巳の変」、その後の政治改革のことを「大化の改新」と分けて表現されています。歴史の常識というものは、時代とともに変化していくものなのです。ここが、「乙巳の変」(大化の改新)の舞台となった飛鳥板蓋宮があったとされている場所。「伝飛鳥板蓋宮跡」という遺跡です。この宮殿の中で、当時、政権の絶頂にあった蘇我入鹿が刺殺されたのでした。しかし、この地は、飛鳥板蓋宮だけではなく、幾度かにわたり宮殿が営まれた場所でもありました。実際には、この遺跡には、何層にも遺跡が重なっているのだそうです。古い順に並べると、飛鳥岡本宮 - 飛鳥板蓋宮 - 後飛鳥岡本宮 - 飛鳥浄御原宮という形で、何度も、この地に宮殿が建てられました。現在、発掘調査により確認されているのは、一番新しい飛鳥浄御原宮で、飛鳥板蓋宮まで発掘すると、上層の宮跡の遺跡が壊れてしまうので、飛鳥板蓋宮については、一部が確認されているのみ。そのため、遺跡の名前が”伝”という表現になっているのだそうです。蘇我入鹿の首塚です。飛鳥寺の裏手にあります。「乙巳の変」の時、入鹿の首が、飛鳥板蓋宮からここまで飛んできたのだと言い伝えられています。この首塚の後には、田んぼが広がっていますが、ここが、かつては「槻の広場」と呼ばれていたところ。中臣鎌足が中大兄皇子と出会ったとされる蹴鞠の会が行われた場所だと云われています。その奥に見える丘が、甘樫の丘。この中腹には、当時、蘇我入鹿の屋敷がありました。最後に、甘樫の丘に登りました。飛鳥の歴史の舞台となった史跡や、畝傍・耳成・天の香具山の大和三山が、360度、一望に見渡せます。これまで巡ってきた飛鳥の遺跡を、ここで、もう一度、かみしめることができます。飛鳥は、日本が、その基本的な国のかたちを築き上げてきたころの歴史が多く刻まれているところ。掘れば遺跡が出てくる、とまで云われるほどの遺跡の宝庫でもあります。その遺跡や明日香村の美しい景観は、これからも大切にしていきたいもの。それくらい、特別な存在感を持つ町であると、この旅の中で、そんなことを感じました。