弘法大師と四国八十八ヶ所めぐり
四国各地の札所寺院を訪ねる、四国霊場八十八ヶ所めぐり。「お遍路」とも呼ばれるこの巡礼は、弘法大師・空海が若き日に修行したと伝えられる足跡を訪ねるということがその原型にあり、お大師さま信仰の代表的なものといえるのだと思います。本来は、空海の死後、大師を慕う修行僧たちが大師の足跡を追って、遍歴の旅を始めたのが、そのはじまりであったということのようですが、時代とともに、一般民衆にも広まっていき、江戸時代には、今のような巡礼のスタイルが出来上がり、多くの人が、お遍路の旅を行うようになったもののようです。しかし、空海が本当にそれだけ多くの四国の山々を修行してまわったのか、というと、そうした資料が残っているわけではなく、また、なにぶん、1200年前のことですから、はっきりしたことがわかっているわけではありません。空海の事歴の中に、空白の7年といわれている期間がありますそれは、空海が京都の大学寮を中退してから後の、20才過ぎの頃のことで、この時期については、極端に資料が残っておらず、この間に空海は様々なところで修行をしていたのではないかと考えられているのです。しかし、そんな中でも、空海自身が書き残しているのが、阿波の大滝岳と、土佐の室戸岬で修行したという記述。特に、この室戸岬では洞窟に何日もこもって修行に打ち込み、そうした中で、口の中に明星が飛び込んでくるという衝撃的な出来事に遭遇し、悟りを得たという話が伝えられています。さらに、この時、洞窟から見える景色が空と海ばかりであったということから、空海という名が思い浮かんだのだ、とも云われています。この空白の7年の間、空海は、一体、何をしていたのかということは、非常に興味深い事柄であります。それというのも、この後、空海は欠員に滑り込むようにして、遣唐使の一員に加わわるのですが、しかし、彼が唐に渡るや否や、その詩文や書の才能が、唐の皇帝にまで認められ、また、仏教の面においては、中国密教の後継者の地位を譲られて、留学生でありながらも、中国密教の第一人者となるのです。このことは、空海に天賦の才があったということはもちろんですが、いかに、この7年間に空海が、自己を研鑽し、また、密教についても、驚くほど高いレベルのものを独力で修得していたか、ということの証でもあります。唐での留学期間を2年で終え、日本に戻ってきた時、空海は、すでに、日本では飛びぬけたレベルの宗教家・芸術家となっていたわけです。そんな、空海の若き日の修行のあとを追うのが四国八十八ヶ所めぐり。近年は、観光的な側面も加わって、年間30万人の人がお遍路道を訪ねているのだとか。祈念・癒し・自分探し・贖罪・・・。信仰や修行ということではなくても、人それぞれに、何かを求めて八十八ヶ所をめぐっておられるのだと思います。私も、最近、この年になって、自分もまだまだだなあ、と感じることがあります。もっと修練を積まなければとも思いますいつの日か、機会があれば、四国八十八ヶ所めぐりを始めてみたい、そんなことを思っている、今日この頃です。***ところで、私事ではありますが、このところ、仕事がかなり集中してきておりまして、また、9月と11月には、大きなシステムの納品を控え、かなり専念しないと納期に間に合わなくなりそうな状況です。そこで、日記の更新をしばらくお休みしたいと思っております。遅くとも、年末までには、また、日記を再開したいと思っておりますので、今後とも、変わらず、当ブログとお付き合い頂ければ幸いです。また、皆さんのところには、時間を見つけて、お伺いすると思いますので、その節は、宜しくお願い致します。暑さ厳しい折ですが、皆様も体調に気をつけてお過ごし下さい。