雨森芳洲
雨森芳洲は、江戸時代中期の儒学者であり、かつ、日本の対朝鮮外交を長く担当した外交官でもあります。といっても、雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)という名は、あまり聞きなじみが、ないかもしれませんね。それでも、20年あまり前、マスコミにも取り上げられ、脚光を浴びた一時期がありました。それは、1990年5月、盧泰愚(ノ・テウ)当時の韓国大統領が来日した宮中晩餐会でのこと。天皇陛下から、「江戸時代には、朝野を上げて朝鮮通信使を歓迎しました。」とのお言葉があったのに対して、盧大統領は、「270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、誠意と信義の交際を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった玄徳潤は、東莱に誠心堂を建てて日本の使節をもてなしました。」と、雨森芳洲のこと触れ、さらに、「現代の韓国で最も賞賛されている日本人の一人である。」と、芳洲を称えたという話が残っています。芳洲は、鎖国の日本にあって、幾度か釜山にある倭館に長く滞在して朝鮮の人と親しく交際し、海外生活を送っていたという異色の経歴を持った儒学者であったのです。そこで、今回は、そうした雨森芳洲の生涯と、その思想について、まとめてみたいと思います。雨森芳洲は、寛文8年(1668年)近江国伊香郡雨森村(現在の長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれました。父の清納は、芳洲を医者として跡を継がせたかったようで、芳洲は、12才の時から京都で医学を学びましたが、結局、芳洲は医者の道に進むことを選ばず、儒学の道を志しました。芳洲、18才の時には、江戸に出て、当時、優秀な若手の儒者が多く集まっていた木下順庵の門下に入ります。ここで芳洲の学才が師の順庵に認められることとなり、順庵門下の若手の中でも、第一番手という評価を受けるまでになりました。この頃の、芳洲の同門としては、新井白石・室鳩巣などという、後に、一流の儒学者となった人たちがいましたから、芳洲がいかに逸材であったかがわかります。しかし、そうした芳洲にとって、大きな転機が訪れることとなります。元禄2年(1689年)、師の順庵から対馬藩への仕官を薦められたのです。江戸時代、鎖国とは言っても、朝鮮との間には幕府管理下での国交があり、その交渉の窓口は対馬藩のみに限定されていました。対馬藩の当主・宗氏は、徳川諸侯の一人ではありますが、その一方では、かねてより李氏朝鮮に対しても臣下の礼を取っており、官位まで授与されているという、二重服属のような特殊な立場にありました。そうした中で、対馬藩は貿易や国家間の祝賀・弔礼などの国家間儀礼を幕府から委任され、釜山には常駐の公使館である倭館も置いていました。このように、江戸期の対馬藩は、まさに、朝鮮との交易を基盤とした貿易立国であったといえるのですが、しかし、朝鮮との交際を続けていくにおいて、李氏朝鮮が徹底した儒教国家であったために、交際や儀礼においての知識や教養が、常に要求されるといった事情がありました。そうした事から、対馬藩は、一流の儒学者を召抱えておく必要に迫られ、優秀な人材を推薦してしてもらえるよう木下順庵に頼んでいたのでありました。結局、芳洲は、対馬藩への仕官を決断します。時に、芳洲、若干23才の時のことでありました。その後、芳洲は、元禄6年(1693年)、対馬に赴任。元禄16年(1702年)には、初めて釜山に渡ります。釜山着任にあたって芳洲は、対馬藩から朝鮮方佐役という朝鮮外交の実務責任者ともいうべき役職に任命され、駐在外交官として赴任したのでありました。釜山に入ってからは、朝鮮の人たちを相手に打合せや宴席・接待を繰り返す日々。しかし、外交の上では公文書が漢文であるため、芳洲にとって何の不自由もなかったものの、話し言葉や日常の文章においては、朝鮮語(ハングル)が用いられているため、意思疎通がなかなか上手くいかないといった場面が多くありました。そうした中で、芳洲は、朝鮮語を学ぶことの重要さを実感し、ここから朝鮮語の猛勉強を始めます。芳洲は、倭館の中に、まず、朝鮮語を学ぶための学校を作り、さらには、朝鮮語の教科書を自身の手でまとめ上げていきます。「交隣須知」と題されたこの本は、日本で始めての本格的な朝鮮語の語学教科書であり、この本は、その後、日本国内で普及し、明治初年までの間、長く朝鮮語の教科書として使われ続けたのだそうです。また、この時期の芳洲は、朝鮮における日本語辞典の作成にも参加し、その編集にも携わったといわれています。ところで、この時期。江戸時代の日朝外交において、最も大きな行事となっていたのが「朝鮮通信使」でありました。「朝鮮通信使」とは、徳川将軍が就位する際に、朝鮮から使節団が送られてきて、江戸で祝賀の国書が渡されるもので、500人からなる使節団が、大名行列さながらに街道を練り歩き、その途中では、曲芸や武芸の出し物まで行うなど、庶民にも人気の高い、華麗な行事でありました。江戸幕府は、この接待のために100万両を出費していたともいわれ、オランダ商館長の江戸参府に比べても、桁違いに規模が大きい、当時、日本最大の外交行事であったのです。芳洲は、この「朝鮮通信使」の応接役を、6代家宣の時、8代吉宗の時と2回務めることとなり、これが、芳洲の生涯における最大の晴舞台ともなりました。そして、この「朝鮮通信使」における活躍により、芳洲の学識と外交手腕は高く評価され、芳洲の存在が、日本で、そして朝鮮で、その名が知られるようになっていきます。享保5年(1720年)芳洲、今度は、朝鮮の新王即位の祝賀の使節団として、再び釜山に渡ります。しかし、この帰国後、芳洲は、朝鮮人参の密輸などの対馬藩の政策に反対して、長く勤めていた朝鮮方佐役の職を辞任。家督を、長男の顕之允に譲って、隠居しました。芳洲54才の時のことです。その後、芳洲は、厳原の自宅に私塾を設け、著作と教育の日々を送ることとなるのですが、しかしながら、対馬藩は、相変わらず芳洲の能力を頼っていたため、隠居後においても、芳洲は、幾たびか藩から任務を与えられることがありました。なお、芳洲の活躍は続くのです。享保14年(1729年)芳洲は、また、釜山に渡ります。今度は、貿易品の品質改善と通信使の日光参拝について交渉をするための特使としての役割です。そして、この頃になると、芳洲は、朝鮮国内においても高い信頼を得る存在になっていました。盧大統領も、話していた「誠心堂を建てて日本の使節をもてなした」という逸話は、この時の芳洲に対する、朝鮮の歓迎ぶりのことであります。享保19年(1734年)芳洲、今度は、対馬藩の側用人に就任。藩政に携わることとなります。芳洲67才の時のことです。この時、芳洲は、藩政についての上申書や朝鮮外交の心得書を書き上げて、対馬藩主に提出していました。中でも、この時、朝鮮外交の心得として書かれた「交隣提醒」(こうりんていせい)という書は、芳洲の代表作であると云われているもので、芳洲の国際外交についての思想をまとめ上げたものでありました。芳洲が唱えた国際外交とは、一言で言うと・・・。国際関係においては平等互恵を旨とすべきであり、外交の基本は誠信にあるということでありました。国際外交を進めるにあたっては、まず、相手の国の言葉・文化・習慣や歴史などを知り、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ真の交流であると説いたのです。そうした芳洲の外交思想は、現代でも指針となるような、先進的な国際感覚をもっていたとも云われていて、近来とみに、評価されているようです。宝暦5年(1755年)対馬の厳原にて死去。享年88才。対馬という辺境にいたため、脚光を浴びることが少ない人ではありますが、その思想と業績は、もっと認められても良い人ではないかと感じます。