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テーマ:ただ思うこと・・・(560)
カテゴリ:こころについて
<LAIRA>
東京MXTVの「ヒーリング・タイム」で、エリック・クラプトンの「レイラ」のアコースティック・ヴァージョンが流れてた。 ノスタルジー溢れるフレーズである。 デレク&ドミノス時代に発表された、メタリックな「レイラ」も好きだが、たぶんその後随分時代を隔てて発表されたのであろう、このアコースティックな「レイラ」も案外渋くてよい。 ただ、ドミノス時代の「レイラ」の邦題は「いとしのレイラ」だったけど、この「レイラ」は、どうなんだろう。 青春時代の、恋人がいとしくて天に向かって叫びたくなるような頃からはちょっと「とうがたって」しまった、「なつかしのレイラ」ってな感じ。そういえば昔、レイラって娘に夢中になった頃があったっけ、あの娘ももういいオバチャンだろうよなあ。 若かったよなあ、ワルだったっけなあ、でも懐かしいよなあ、戻れるもんなら戻ってみたいもんだよなあ、あの頃のオレ。 なんて感じで、クラプトンの歌い口調はずいぶん落ち着いてる。よくわかんないけどそんな感じ。 ・・・なんて戯言はともかく。 今日も朝から暑くてなんだけど、なんとなく懐かしい曲に思いを馳せて、少しだけ気分が晴れやかになってきたりなんかして。 <武家草鞋> 山本周五郎って、少し前にはよく読んでたんだが、今日久しぶりに読んだらなんだか懐かしくなっちゃってネ。 最近はおもに、高杉良とか中島らもあたりを好んで読むんだけど、それらが焼肉だとすると、周五郎は新鮮なトマトってなところだろうか。 かじってるうちに、心が澄んでくるって感じがするんだよね。 「武家草鞋」っていうのも周五郎の短編小説のひとつなのだが、私にとってはなんつーか、「生きる指針」みたいな小説なんである。 江戸時代、仕官を外されて田舎へ移り住んだ武士が、とある田舎の農家で教訓を得て立ち直る話。 教訓を与える農家の老人の言葉が、自分の胸にも突き刺さって、「ああ自分もこう生きなければならないんだな」という気持ちになったことを思い出す。 改めて読んで、身が引き締まる思いがした。 * * * * * * * * あらすじ。 この武士、以前ある藩に仕えていたときには謀略に遭って締め出され、すっかり腐った気持ちで田舎へ移り住むのだが、そこでもふと入り込んだ野葡萄の林で、田舎の娘に「ドロボウ」よばわりされる。 とりあえず生計を立てようと住み込んだ農家で草鞋の作り方を学び、それを商人に卸そうとすると、商人が安い材料で壊れやすい草鞋を作って多売しようと持ちかける。 武士はすっかり厭世的な気持ちになって、住み込み先の主である老人に、募りに募った胸のうちをぶちまける。「こんな浮世を生きていくのがばからしくなった」と。 すると老人が、以下のようなことをいうのだ。 「貴方は世の中がきたない、薄汚れているというが、そういう場面に出くわしたのは、貴方にも原因の一端はあるのだ。自分の非を顧みたことがあるか。それをせぬままに世間だけを批判するという道理は通りますまいぞ」 武士はハッとして、以後心を入れ替えるのである。 * * * * * * * * たぶん、周五郎の周りにも、そういう愚痴や他人の批判が好きな人がきっといたんだろう。 そういう人に対しての、これは周五郎の思いでもあるのではあるまいか。誰かに云ったのかどうかはともかくとして。 ただ、愚痴とか不満、悪口ってのは、それを人に話したりすることによって自分の精神バランスをとるという作用がある。 そのために云ってる、という自覚があればいいし、云ったあとに内省・内観ができるぶんには問題ないと思うんだけど、えてしてそれができずに、それが本心だと思い込んだりしちゃう場合ってのが少なくないんじゃないだろうか。 そうすると、それはいつしか本当の憎しみや怒り、または自己嫌悪に変わっちゃう。 そうなる前に、そうさせた原因かもしれない自分を顧みるべし、ということを、私はこの「武家草鞋」から学んだのだ。 それをこのたび、再び思い出した。 人は社会との相互作用によって、態度や感情をさまざまに変化させるのだ。そのことを忘れてはならないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
August 25, 2006 04:17:41 PM
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