「夢がない」と答えてなぜ悪い?
今朝、某テレビ番組で、子どもの将来の夢を抱かせる教育の一環として、実際の仕事現場の体験を子どもたちに味わわせる施設を紹介していた。その前置きとして、政府だったか、あるいはマスコミ・シンクタンクが子どもに対して行った「将来の夢はなんですか?」というアンケート調査に対し、「将来の夢はない」という回答が最も多かった、という集計結果になったのが問題なのだという。これをうけて、番組のメインキャスターが「これは寂しいことですねえ」と、ややうんざりした顔で答え、番組を進行するアナウンサーも、「そうなんです、このように『今の子どもたちには夢がない』というとても残念な結果が出てしまったんです」とまぜっかえしていたのだが。まるで、「将来の夢はない」と答えた子どもがあたかも悪者みたいな話の展開になってるみたいなんですけど、なんで?「まちゃまちゃ」風に云うと、「将来の夢がないから寂しい? 残念だ? はぁ?」みたいに感じちゃったのであるネ。もっとこんなふうに考えられないものか。そもそも、子どもが「将来の夢は何?」と聞かれて、答えられる「大人の求めを充足する回答」の範疇というのは限られているはずであり、それに反して子どもの発想の範囲というのは、もっと広いはずなのである。つまり、「夢がない」というのは、単に大人の目線から子どもが外れただけなのだと。大人が聞いて喜ぶ「将来の夢」の回答というのは、大方こんなものだろう。スポーツ選手、パイロット、医者、看護師、総理大臣、刑事、学校の先生、小説家、料理人、歌手、なんて答えれば、大人は喜ぶ。逆に、役所の公務員、お笑い芸人、有名人のお嫁さん、ネットゲームのプロ、ギャンブラー、なんて答えると、親や教師に叱られたり、クラスでいじめに遭ったりするわけだろう。さらに、仮面ライダーとか、アンパンマンとか、ガンダムの操縦士とか、ルパン3世みたいな泥棒とか、浜崎伝助や寅さんみたいな遊び人になりたい、なんていうのも、子どもの「夢」という発想の中には十分ありうるにも関わらず、親なんかはそういう答えを我が子から聞いた瞬間、周りの子と比べて「うちの子はおかしい」なんて心配になったりするわけじゃないか。そうして「そんなのじゃなくてもっと別の夢があるでしょう!?」なんて周りの大人たちからせっつかれたりしてるうちに、考えるのが嫌になったり面倒になったり、まだそういう「大人になったらやりたい仕事の夢」にまで思いがいたっていない子どもは、体裁と恥の恐怖などから自分なりの夢の表現を取り下げて、やむなく「夢はない」と答えざるを得なかったんじゃあるまいか。そのほか、発達の個人差だとか、健康状態、家庭の事情とか、いろんなところから「将来の夢はない」と我が子が答える要因は存在すると思うなあ。つまり、大人が構築した枠に子どもがはまらなかったからといって、その子が変だとか悪いという発想は、視野を狭め、眼前のコミュニティや家庭をつまらぬものにしてしまうのではないか。この問題に対して発言する人は、もっと子どもの目線から見て物事を考えるべきだと思った由。