玉藻

2005/02/20(日)21:44

大河ドラマとは全く関係ない「ヨシツネ論」vol.1

歴史関係(54)

すみません、NH●さま。 一体今、時間軸はどこに定めておられるのですか? 全然わかりません。 あのぉお~殿下乗合事件のこと?みたいな都の騒動とか、建礼門院徳子入内話とか。 なんだか第二回で承安二年とか言ってませんでしたか? ならば時間軸が逆行してるのでしょうか。 この回は承安元年だとしたら、藤原基房くんまだ28才(数え)です。あんなオッサン風貌では、かわいそうすぎませんか? ちなみに重盛の方が年上ですけど……。 鎌倉方のお話も始まってしまって、すでにpgの許容範囲を大きく逸脱し始めましたが、この吾妻鏡あたりのことは、【Monsoon works】さまの守備範囲なので、おもいっきりつっこんでいただきましょう! それにしても、pgは日本歴史占いで「北条政子」と出てきたわけで、彼女の描かれ方には興味ありです。気の強そうな、男勝りな感じは定説ですけど、本当にそうだったのかな?と疑問を感じずにはおれません。 たとえば『六代勝事記』に書かれている「政子演説」なんぞを読むと、やっぱり後家の気合いというか、やることやるぜ!的な精神はわかるんですけど、若い頃からそこまで気合い入れてたんでしょうか? 守備範囲外の事は、細かく書く気になれないので、これはコレで終わり!! もうこのドラマについて、そういうツッコミすることは止めておこう。限りなくなっちゃうもんね(自嘲)。 昨日、上横手雅敬先生のセミナーへ行ってきました。 『京都と源義経』という題名です。 なんて、グッドタイミングな講演でしょう。しかも今回の『義経』に関する話題もいくつかちらほらありました。 その中で、さすがに歴史学の立場からの分析として、源義経がどのような歴史的地位にあり、それをどのように解釈すればよいかというお話は、聞き所でした。 幼少の頃の牛若(=沙那王)に対しても、華やかな生活を送っていたかどうかは疑問だし、無頼の徒との交わりの方が、濃かったのではないかというのも、頷けました。 なんていうんですかね、ものすごく私的な感覚なんですけど、pgの中では、彼は本当にこんなに主として取り上げられる状態だったんだろうか??と。 例えば院政期では子供の序列っていうのは、かなり決まった感覚があって、兄弟という部分でも、嫡男(兄)と庶流(弟)では天と地ほどの差があったりします。 公家の中ではそれが顕著で、当然家を存続させるために、嫡男は重要視されて、それ以外は男子であっても兄の補佐ならまだしも、兄を盛り上げるための踏み台っぽい部分があったりもするし、中には兄に仕えてるんじゃないか?とまで謙っている部分もあるんですよね。 武家にそれがそのまま適用されて良いかどうかはわかりませんが、頼朝を嫡流嫡男とする見方があるならば、義経(ごとき、とまでは言わなくても)はかなり下に見られて当然だったのでは?と。 清盛があれほど敵視したりする存在だったのかなぁ?とも思うわけです。 所で、例の『五条大橋桜吹雪の出逢い』ですけど、弁慶と牛若丸(義経)は二度戦っているそうです。 一度目は五条天神社で。 二度目は清水の舞台で。 なかなか面白い。戦っている時期は六月の満月日だったらしいから、桜吹雪は無理ですね(元木先生、そういうツッコミは~キビシイですよ(^^;)ゞドラマですから~穏便に)。 それに、今回奥州へ旅立つ!とリキいれてましたけど、本来沙那王は奥州にとって、招かれざる客亭だったのでは?という提言も興味深くお聞ききしました。 そうですよね。関東と接する機会の多い奥州が、独自の文化圏を作りつつ、金と馬を産出する豊かな国作りを目指していたならば、あえてやっかいな存在である沙那王を迎えようとするだろうか?という疑問が無いではない。 どちらかというと、『来て欲しくないと思ってたけど、来ちゃったのでしかたなくいさせてあげた』っぽい扱いらしいですしね。 その後、頼朝の悪略に足元掬われる状態になる奥州ですけど、ここで関わりをもってしまったことが滅亡のきっかけとしたならば、えらい疫病神を背負い込んでしまったわけで…。 ホント義経って本人にその気がなくても、♪どこか不幸がとりつきやすい~♪体質というか人生だったんですねー。 このセミナーで一番感じ入ったお話は、『頼朝の知略と悪略は群を抜いていた』ということでした。 頼朝さんたら、ドラマではのんびりとして、昼行灯みたいなへぼ男ですけど、どうしてどうして、ヤルことはやってますね。 意外と頭がよかったのか? それとも参謀に切れ者がいたのか? 後白河・義経・義仲・都の公家すべてを手玉にとっているという印象を持ちました(このお話はまた改めて♪)。 日本一の大天狗はお前だよ!とツッコミいれたくなるくらいです。 兼実さまが手玉に取られるのは仕方ないことだったのかも。 使えるだけ使っておいて、ポイと捨てる。そんな事ができる男だったんだなぁと。 そして創作物である軍記物や公卿日記などの史料の中で、どれもこれも義経像としてまともなモノはないけれど、吾妻鏡の中では結構『判官贔屓に書かれている』という指摘も、興味深かったです。 これはもしかしたら、当時の関東武士の生活感と貧しい青春を送ったのではないかと思われる義経の生活レベルが比較的近くて、頼朝のような都系リッチ階級の人物よりも、義経をより身近に感じて同情していたのかな?と思ったり。 とにもかくにも、関東のことは難しくてタッチできませんわ~。 ****セミナーでお聞きしたお話は、また随時ドラマの放送で適当な回があったら、書きたいと思います。宜しく! ********************* 昨日のblog、pが疲れて夕方寝してる間にgが書きたい放題書いていたのね(ーー;)ゞ。 生意気なこと書いてるけど、まぁそこは寛大な心で見許してやってくださいませませ。

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