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心理・思考

Jan 13, 2008
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カテゴリ:心理・思考
最近、毎年この時期になると、荒れる成人式の様子をテレビなどで見かけるようになってしまっている気がする。

すべての新成人がそうではないとは思いつつ、どこか成人することを何か履き違えているように見えるその光景にはいつも唖然とさせられる。今年もそんな光景がテレビから流されてくるのだろうか・・・。

成人式を迎えるとき、彼らはどう思っているのだろうか。「大人になった」ということついて、なにか思うことはあるのだろうか。そしてその実感についてはどうなのだろうか。


私はといえば、どちらかといえば「大人になった」というより「大人になってしまった」というような感覚の方がが強い。別にずっと子供のままでいたかったとか思っているわけじゃないし、そういうニュアンスで「なってしまった」などと思っているわけじゃない。

心が大人になりきる前に、年齢だけ大人になってしまった…という、そんな感覚だ。「大人になりそこなった」とでも言った方が近いのかもしれないが。

そのせいだろうか、成人の日の当日になっても、新成人として慣れないスーツで式の会場に向かっても、会場でお話を拝聴しいても、いまいちピンときてなかったように思える。おそらく高校卒業ぐらいの時とさほど変わらない意識で、まだまだ大人気ない私がそこに座っていたのだろう。


ただ、年齢的に十分大人の人でも、子供っぽい、大人気ない所を持つ人はいると思う。実際、いままでいろいろな「大人」の人に接しているけれど、自身のことを棚上げして、「大人気ない」などと感じてしまったことも結構ある。反対に、私よりもずいぶん若い人で「しっかりしているな」などと思ったこともある。「いいかげんだな」と感じることもそれなりにあったけど。

最も、いつも「大人」かどうかで周りの人を見ているわけじゃないし、私自身の人の見方が少々穿っているのかもしれない。あるいは「若い人のなら未熟でもしかたないが、年長者にはせめて年相応には成熟していてほしい」とかいう意識があって、年長者に対しての目が厳しいのかもしれない。


そもそも、私はどんなことを指して「大人になる」と考えているのか。きちんと働いて、人に迷惑をかけず、自立して生活できる人…といったあたりだろうか。検索したときにみつけた項目には「自分の行動に責任を持つ」とありました。それもあるかな。

ただ、いろいろ考えてみると、そこに一種の理想像みたいなものをはめ込んでいるようにも思える。私はまだ、それには程遠いと感じている。これではまだ大人になれてないと感じるのも無理はないだろう。

あと、こういう考え方だと、「年齢」という部分はさほど重視していないということになりそうだ。


なら、どんなときに「大人気ない」、「子供っぽい」と感じるか。それは、自分本位しか思えない行動そのものや、それによって周囲を振り回している時…だと私は思う。

荒れる成人式の様子に見られるものなんかは、まさにその手の行動のように思える。大人の仲間入りをした彼らの最初の行動から感じるものが「大人気ない」というのは、ある種の滑稽さがあるのかもしれないが、笑える類のものでもない様に私には思える。

同時に、そこに未だに大人になりきれていない自分自身のいたらなさ、大人気なさが投影されているようにも感じられるため、上から目線で突き放して偉そうなことを言う気にもなれもなれなくて、なんとなく気分が沈んでしまったりする。


もう年齢的には十分すぎるほどに大人側なのだが、新成人の側に自分自身を見てしまうようでは、やっぱり、私にはまだまだ、大人なりきれていないということなのだろうか・・。多分そうなんだろうな・・・。






Last updated  Jan 14, 2008 12:21:48 AM
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Nov 6, 2007
カテゴリ:心理・思考
分からないのは僕が人の価値観を認められないから黄昏時の街の日記さま】

おそらく、誤読だと思うのだけど、対象の面白さを理解でないことを価値観の否認のように感じてしまった部分があり、そこに違和感を抱いた。果たしてそうなのだろうか・・・と。


例え、その対象の面白さが理解できなくても、その対象を面白いと感じる人がいるということは理解できるのではないだろうか。

個人的には好みや相性の問題だと思うので、少なくても、「Aはつまらない」がそのまま「Aを面白がる人の気が知れない」にはならないだろうし、価値を認められなくても、それが価値観を否定することにはならないと思う。


ただ、私自身、その対象の価値を否定された時に“その対象に価値があると感じること自体まで”否定されたように感じてしまうことが時々あるので、頭で理解しているかどうかはともかく、感情面では、理解できていないのかもしれない。

それに、私は一度「つまらない」と認定してしまうと、その後、誰かに薦められても、積極的に手を出そうとしたり、面白さを理解しようとしたりすることがほとんど無いので、実は認めているフリをしているだけなのかもしれないと、思わなくもないのだけど。






Last updated  Nov 7, 2007 12:40:12 AM
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Oct 13, 2007
カテゴリ:心理・思考
承認の問題
承認関連の話題を続けます 共に【あなたの正義は誰を殺しますかさま】

自分も承認不足というか、承認そのものを欲求しているという部分はあると思う。少なくても、私は自身だけでは自分の全てを承認しきることはできていない。 

とはいっても、別に常に渇望しているわけでもではないのだけども、何かの拍子に、強い承認欲求が浮き上がってくることがある。特に落ち込んだりして精神的に余裕が無いときなどはその傾向がより顕著になる。

おそらく、私自身の奥底に半ば強迫観念に近い承認に対する欲求があるのだろう。普段は「あえて考えない」ということで見ない振りをしているにすぎないのだと思う。


理由や根拠がなくても、無条件に自身を承認できればいいと思う。だが、自分にはそれができない。

このあたり、自信においても同じ状況が続いているな。自信を持つために、自分を肯定する根拠が必要なのと同様に、承認に足りうる根拠というのが、必要と感じている部分が私にはあるようだ。


いや、友人関係など、形としての承認が得られなくても、根拠がなくても、無条件に自分がその人たちからの承認を信じられる集団、場所は持っている。ただ、貪欲なのか、それだけでは不十分と感じている部分があるようだ。

もしかしたら自分が所属している全ての集団において、承認されることをもとめているのかもしれない。


ただ、承認に足りうる根拠を他者からの承認から得るる場合、結局は自身の基準を切り抜ける必要が出てくるように思う。

求めている他者が承認したとしても、その承認そのものを受け取った自身が承認にたりうる根拠と認めなければ、結局は承認欲求を満たすことができないのではないのだろうか・・・。






Last updated  Oct 14, 2007 01:39:22 AM
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Sep 17, 2007
カテゴリ:心理・思考
いつもと言うわけでもないのだが、褒められたときにみょうにむずがゆくなるような違和感をおぼえて、素直に喜べないことがある。

自分が普段、何気なくこなしていることだとそう感じるのかな。と思っていたのだが、苦戦を強いられたときでも感じることはあるようなので、作業をこなす時の苦労の度合いは関連しないみたいだ。

となると、やっぱり受け取る私の方の気の持ちようの問題なのか・・・。場合によっては「馬鹿にされているんじゃないのか?」などと、特に根拠も無くネガティブに受け取ったりすることもあるし。


かといって、別に、褒められること自体が苦手とかそういうことはないと思う。

承認願望はむしろ強い方ではないかとさえ感じているから、「認めてもらいたい」とか「褒めてもらいたい」っていう思いもとうぜんあるはずなんだけど、いざ褒められると、なんかしっくりこなくて、違和感をそこに感じてしまう。

なんというか、「自分はそこまでのことをしていない」って思ってしまうんですよね。


もしかしたら、それが違和感の正体なのかもしれないな。

となると、まず最初に自分自身で、その何かにたいして、「俺は(賞賛に値するような)すごい事をした」って思えないとだめなのかもしれない。

でもそう思えることってなかなか無かったりするし、自分が「頑張っている」とか、思い込んでいることに限って、あまり賞賛などを受けることがないように思える。


まあ、「頑張っている」っていってもあくまで主観だし、見る側の人にとってそれがどう映るかとか、それが評価とか賞賛に結びつくかっていうのとはまた違うってのもあると思うけど・・・。






Last updated  Sep 18, 2007 12:31:39 AM
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Sep 1, 2007
カテゴリ:心理・思考
職場にいる嫌いな奴に対する感情が、また「どちらでもない」の方に変わってきている。


嫌いなやつとはいっても、1から10まで嫌いってわけでもなくて、それどころか趣味とかでは話があうところもある。だから、状況しだいでは楽しく会話できてしまうことさえあって、おそらくそのせいでこういった感情の揺らぎがおきているのだろう。

なので、もしかしたら、出会いかたや関わり方が違っていたら、あるいは、もっと親しい仲になれたのだろうか・・・などとと妄想したこともある。

しかし、その人には嫌いになるのに十分過ぎる、ものすごく癪に障ってムカついてどうしようもない部分があるので、やっぱり、どう転んでもどこかで「嫌い」になっていくのかもしれない。

なまじそういう人と友人のような関係になってしまうと、縁を切るのも一苦労だろうし、なんかこじらしてしまいそうでもあるので、そうならなくて良かったのかもしれない。



しかし、その人に出会うまで、私は一度きまった「好き」とか「嫌い」といった感情が、時や状況で変化することはまずなかったと思う。「嫌い」な奴は頭のてっぺんから足の先まで嫌いだと認識していたような気がするから、それが変化するなんて、思ってもいなかっただろう。

まして、嫌いな奴とでも、状況しだいでは、楽しく会話できることがあるなんて、とてもじゃないが信じられたものではなかっただろうな・・・。

そういう意味ではその人との出会いは貴重ともいえる。こんな形でそれを知る機会を得たくはなかったけど・・・。


ただ、いまだに「好き」と「嫌い」が逆転するということに関しては、にわかに信じがたい部分があるんだけど。私の場合、こういうことは実際に自分の身に起こってみないと、完全には信じられないのかもしれないな。






Last updated  Sep 2, 2007 02:09:37 AM
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Aug 10, 2007
カテゴリ:心理・思考
昔のことは覚えていないのは自分を守るため鼻が赤くなりにくいティッシュですさま】

私には、あえて思い出さないようにしている事がある。

正直に言うと、思い出すのがちょっと怖いのだ。思い出したら、また、あの時と同じような精神状態になるのではなってしまうのではないだろうか、と。

もうかなり前になるので、十分色あせているはずだろうから、おそらく大丈夫だとは思うのだけど…。

多分、一番怖いのは、思い出すことではなくて、あのときの状態に戻ってしまうことなのだろうな。本当にあの時はどん底だったと思うから。


思い出したくもなかったのに、何かの拍子に思い出してしまい、無気力になる…。それがなくなっただけでも、ずいぶんましにはなったのだ。

それぐらい記憶がかすれたということなのだろう。それでも、まだ、あえて思い出そうという気にはなれなかったりする。


かといって、忘れてしまいたいというわけではないし、ずっと心のすみに追いやったままにしておきたいというわけでもない。
できれば、その時の思い出もしっかり受け止めなければ…と考えていたりはするのだけど。

いつか、そのことも誰かに笑って話せるぐらいなった時がきたら、もう一度、あのときの私と向き合ってみようとは思っている。だから、その日が来るまではこのままにしておこう。


いまだにこんな調子ではいつになるのかわからないけれど。






Last updated  Aug 10, 2007 11:43:16 PM
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Jul 25, 2007
カテゴリ:心理・思考
傷つかなくなることについて日々の記録さま】

私ももう、結構いい年だったりするのだけど、傷つきやすさについては全くと言って良いほど変わっていない気がする。

長いこと過敏ともいえる状態が続いているので、ずっとそのままなんじゃないかと思っていた。

年齢が上がると性格が丸くなるという話は聞いたことがあるけど、私もそうなっていくのだろうか…。


年齢を重ねていくことによって傷つきにくくなるのなら、自分が傷つきやすいということを気にしたり、悩んだりする必要はないのかもしれない。

時間が解決してくれるのであれば、あとは時が過ぎるのを待てばいいだけなのだろうし。


ただ、傷つきにくくなると言うことは、痛みに鈍感になるということでもあると思う。

自分の痛みに鈍感になる一方で、他人に対する痛みにまで鈍感になって、今以上により厚かましく振まうようになってしまうのは避けたいものだ。






Last updated  Jul 25, 2007 11:36:32 PM
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Jul 3, 2007
カテゴリ:心理・思考
「顔」を使い分ける意味。オオカミの遠吠え通信 さま】

「裏表のない人格」に憧れたことは過去にあったような気もする。

いまもそうなりたいかどうかはともかくとして、ありのまま、自分のすべてを誰かに見せるなんて事は、もはや今の自分にはできなくなってしまったなぁ…と思った。

私の中には、明らかに誰にも見せたくない、自分の中だけにしまっておきたいと思う、恥ずかしい、醜いと思える部分がある。それを知ってしまった以上、「ありのままの自分を知ってほしい」となどという願いはかなわなくなったし、そう思うこともなくなった。

今も誰かに対して「自分のことを理解してほしい」と思うことはあるけど、自分の全てを受け止めろとか受け入れろという意図でそれを思ってはいないとはずだ。そんなもの、私自身だって受け入れられていない(そうならなくては…とは思うけど)。

かといって、「(自分にとって)都合のいい部分だけを都合の良いように理解してほしい」ということでもないと思う。そうであってほしくはない。

ときどきはそんなことを持ち出してもやもやしているうちに、自分の理解を訴えるとき、願うとき、「結局、どう思われたいのか?、どこまで理解されたいのか?」というところまで来た時点で、いつもそこで立ち止まってしまうようになった。

今もまだ、その答えは出ていない。



現実のどこかでも、あるいは今この場所でも、私は「見せる部分」を自分なりには制限している。器用に演技や演出をこなせるというほどでもないから、裏が透けて見えることもあるかもしれないけれど、別に嘘をついているとか、騙しているという感覚も意図も、そこには無い。

ある部分を「見せない」ということは、確かにその方が「自分にとって都合がいい」というようなこともあるけれど、自分なりに考えた上で、あえて「見せない」という選択を選んでいることもあったりする。

隠したはずのものを見抜かれてしまったり、うっかり余計なことを言って自爆したことがないかといえば、当然あるのだけれど…。


ありのままの自分を見せていない、そういうことでは私も十分「裏表のある人格」ということだろう。そのことに、後ろめたさみたいなものを感じてしまうこともなくはないけれど、しかたがないと思っている。


ただ、一方では懇意させてもらっている人を、一方では悪くいって貶める…などというようなことはしたくないと思っている。

友人だからといって全く嫌なところがない、ということもないだろうけれど、私自身についてもそうだし、それは、お互い様。
どうしてもというのなら、相手に直接いってみるか、ずっと胸に秘めておくか、しておきたいと思う。

そういう部分では「裏表のない人」でありたいと思う。

その部分で裏をつくってまで、その人との懇意を装いつづけたくはない。






Last updated  Jul 4, 2007 12:00:50 AM
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Jun 29, 2007
カテゴリ:心理・思考
幸せじゃなくても良いヘボメガネ一進一退 さま】

自分の今の現状を顧みると、いろいろと不安や不満の種はつきないし、その状況が容易には改善しがたいと感じているということもあって、「自分が幸せだ」という感覚はとてもじゃないけれど持てなかったりする。

じゃあ、不幸なのか…といわれると、とりあえず、日々の暮らしは(将来はともかく)今のところ何とかなっているし、今日明日のうちに自分がどうこうなるということはないわけで、とりたてて「不幸」っていうほどでもないんじゃないのかな…とも思う。


とはいっても、幸せと感じるか、不幸だと感じるかっていうのは、その時の精神状態で短期的ころころ変わっていく部分もありそうだから、今こう思えるのは、自分の精神状態が比較的落ち着いていて、でも幸せを実感できるほどでもないからっていうだけなのかもしれない。

それこそ、凹んでいるときや精神的に参っているときは多分、「自分が世界で一番不幸だ」ってぐらい思っていそうだし。

ただ、すごくいいことがあって浮かれあがっているときでも、幸せっていう実感を持てていないように思う。

なんとなくだけど、不幸は比較的容易に実感できるのだけど、幸福はなかなか実感できないような気がしている。

それは私がネガティブ思考の持ち主だから、良いことを良いことと感じることなくスルーしてしまいがちなのかもしれないけど、それ以上に「幸せだ」と感じるに足りるレベルが高すぎるということなのだろう。そこがまず一番の問題なのかもしれない。


でも、自分の中で「幸福感」がある程度満たされてしまうと、そこで満足しきってしまいそうな気もして、自分の今の現状をからすると、それもまたどうなのかな…と思ってしまう。そこがまた難しいところ。

別に、不幸であることを肯定的に捉えているというわけでもないだろうし、まして不幸でありたいと思っているわけでもなく、幸せになりたいという気持ちは間違いなくあるんだけど、現状のまま気持ちだけ、変化させるっていうのはなんか違うような気がするんだよな…。


追記:

関連

幸せのこと東大生が教える日本の実態さま】
(情報元:はてなブックマーク - REVのブックマークさま)

しあわせでもふこうでもないじょうたい星の旅さま】






Last updated  Jul 2, 2007 07:42:48 AM
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Jun 18, 2007
カテゴリ:心理・思考
私は、どちらかと言えば周囲の人からは、「ぼーっとしている」と、見られがちだろうと思う。
普段から思考や意識があちらこちらに向かいがちだったり、何もないところでつまづきかけたり、床に小銭をぶちまけたりなどいうような失敗談に事欠かないというところから、そう思われるのだろう。

と書くとタイトルと矛盾するようだが、これはそういうことではなかったりする。
ちょっと付け加えると、意識的に「ぼーっとできない」、自分の意思で、「何も考えず、なにもしない」、ということをすることができないということだったりする(なんか、かえってわかりにくくなった気もしなくもない)。


昔から、考えてもしかたのないこと、一度自分で決めたはずのことを、なんどもさいどほじくり返してまた考えてだしてしまうという癖があるせいか、ふと油断すると、そういったことを考えてしまっていることがよくある。

いくらほじくりかえしても、引きずっても悶々とするばかりでいいことはないので、何とかいったん考えるのをやめようとするのだけど、なかなかそれができない。
「ぼーっとする」って、いざやろうと思うと、なんかとても難しく感じる。


仕方ないので、大抵は、別のことをして気を紛らわすことが多い。テレビを流しておいたり、マンガなどを読み返したり、ちょっとしたゲームをしてみたりなど、大抵、ほとんど考えることなく、意識をそっちに向けられそうなものを選ぶ。
重症だと、それでも考え出してしまったりするのだけど、大抵はそれで何とかなる。

でも、トイレとかお風呂の最中だとそういうこともできないので、そのときからまたうじうじ考え出してしまうってことも多い。


なぜか、こういうとき「ほかの事を考えて、気分を紛らわす」というのはあまりうまくいかない。気がつくと、状態が戻っていたりする。
妄想とかでもだめ。こういうときは考えると言うより、被害妄想のようなものに向かってしまうことも多いからかもしれない。


優柔不断とか、自分の考えに自信がないとかいうのも関係するのかもしれないけど、それ以前に、単に気持ちや思考を切り替えるのが下手なだけなのだろうな。
思考とか、感情とかを自分の都合でオン/オフできたら、結構楽かもしれない…などと、妄想じみたことを思ってしまった、今日この頃。






Last updated  Jun 18, 2007 11:22:55 PM
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