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コミュニケーション・生活

Aug 14, 2007
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相手の価値観を尊重するということ。オオカミの遠吠え通信さま】
どうも人間というのは「相手の意見を尊重する」と言いながらも、結局は「自分の考えを押しつける」傾向が強い気がします。
私、どちらかいえばそんな感じだな。

(価値観を意見などを)否定されるのは自分だけじゃなくて、相手の人も嫌なはずなのに、いざ互いの価値観がずれたりする場面に出会うと、その価値観を認めることがあまりできていないように感じる。

自分が価値観を認めることができるのって、もともと自分のなかである程度認めていたものか、あとから自分で納得したものぐらいで、その他にはかなり不寛容になってしまっている気がする。そして、その範囲は意外と狭いんじゃないだろうか。


さらに、最初に否定されてしまうと、その相手に自分の意見を認めさせようとして、ぶつかりあってしまうことが多いように思える。しかも、その時は自分の意見を認めさせることばかり考えていて、相手の意見を認めるという部分は抜け落ちてしまっている様な…。


別に自分の意見に共感してくれなくてもいい。と、そう思っているはずなのに、どこか相手にそうもとめてしまっているような、もっというと、自分の意見の方が正しいみたいな、まるで勝ち負けを決めるかのような状態になってしまっているような気がする。

ヒートアップしてしまっているからというのもあると思うんだけど、それでも、やっぱりその時相手の価値観は否定されているんじゃないかと思うし、もっというと、自分の価値観を認めもらいたいあまりに自分の価値観で相手の価値観を押しつぶそうとしてしまっているんじゃないだろうか…と。

でもそれで、強引に相手を折れさせたとしても、結局それって自分の価値観を押し付けただけなんだよな…。


何も相手が自分の意見を否定しているからといって、自分も相手の意見を否定したり、最初に認めさせるというところから入らなくていいとは思うだけど、いざその場面になると半ば反射的にぶつかり合う方にいってしまうことが多い気がする。

それだけ、自分の意見や価値観を否定されたくないという思いが強いということなのだろうか…。






Last updated  Aug 15, 2007 12:35:53 AM
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Aug 1, 2007
無力だ田口ランディ公式ブログさま】

私もこういうことがある度に、似たような感覚にはなっているとは思うのだけど、最近は無力感よりも先にまず、「まだどこかでその人にたいして期待していたのかな…」と感じることが多くなった。

なんか、ぶつかり合う人っていつも決まっているような気がしてならない。きっと相性との問題でがかち合ってしまうんだろうな。だからなのか、ぶつかり合うポイントも違うように見えていつも一緒なのではないのかな…と考えるようになってきた。


私は結構対人関係ではあきらめの早い部分があるように思っていたのだけど、どうやら根っこの部分では思ったほど割り切れていないらしく、うすうすわかってはいても衝突を回避できないことが結構ある。

徒労に終わるのもある程度はわかっているから、そうなるたびに「やっぱり…」とは思うんだけど、わかっていても相手を自分の思うとおりに少しでもしようとしてしまうのは、やっぱりどこかで、少しぐらいは思うとおりにしてくれるのではないかという期待があるのではないのかな…と。


後は、結局解決法となるのが大抵自分が折れることになってしまうことが多いので、少しでもこっちが折れると際限なく寄りかかってきてしまう奴が相手だと、どこかで譲れない一線を設けて抵抗はしてみるのかな。

思い通りにされたくないと思うのはと相手だけじゃなくてこっちだって同じだし、だからこそ、すこしでも自分が納得できる条件を飲ませるために、あえて衝突することを選ぶんでいるのかもしれない。






Last updated  Aug 1, 2007 11:35:22 PM
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Jul 6, 2007
つたわるということ。星の旅 さま】

私は、どうもコミュニケーションについてはかなり問題点があるようで、発信者側としても受信者側としても十分といった対応がとれていないように思える。

きちんと伝えているつもりでも、相手にはうまく伝わっていない場合もめずらしくない。
多分、「言う」ということに重点がおかれてしまい、きちんと相手に伝わるように言葉を選ぶこと、形作ることが不十分なのだろう

ひどいときはそればかりか、伝えたいことをうまく形にすら、できていないこともよくあったりする。

自分の伝達が不十分だったり、大幅に省略されていたりしても汲み取ってくれる、受信力というか、補完力の高い人にはいつも助けられているのだけど、そのことに甘えてしまって、いつも相手の補完力に頼ってしまうようではいけないのだろうな…と思う。
ついついそれでも大丈夫となると、そこまでで十分と考えてしまい、たまにずれて伝わらなかったときには相手を内心で責めてしまっているような気がするのだけど、こっちが十分に伝えたいことを形にするのを怠っているのだから、それでもしかたないわけで、相手を責めるのは筋違いだろうと思う。

ましてや、本当に伝えたいことを言葉の外にをおいておいて、それで、本心を察してくれっていうのはこっち勝手な願いにすぎないんじゃないだろうか。


受信側としては、思い違いや、勘違いも多かったりするが、それ以上に、裏読みというかやや、過剰に、ネガティブに受け取ってしまうことが多いように思えてならない。
しばし、言われてもいないことや、おそらく言った本人は意図していなかったネガティブな解釈をを勝手に受け取って、勝手に傷ついていたりしてしまっている。

まあ、状況によっては相手の言い方のほうにも問題がある場合もあるのだろうけど、それにいつも期待するのではなく、自分としても過剰に裏読みをしすぎることのないよう解釈を補正していかなければならないのだろうと思う。

おそらくは、こういう過剰な裏読みが、発信者側のことばをむやみに制限することにも繋がってしまうのだろうし…。






Last updated  Jul 7, 2007 01:07:11 AM
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Jun 15, 2007
ごめんなさいとありがとうが言えればいいと思う。メモさま】

大事なことだな、と思う。大事なことではあるんだけど、言いはぐってしまいがちなことばだな…とも。

どちらもタイミングが重要で、その時を逃すとますますいい辛くなってしまう気がするから、余計そう感じるのだろうか。
あるいは、過去に言えなくて結局そのまま機会を逃してしまったことが何度もあるからか…。


もっと私の場合、それ以前にまず、そういう気持ちを持つっていうところから始めなければならないのかもしれないな。

もともと思考が内向きだからとかいうのもあるのかもしれないが、「自分がしてあげたこと」とか、「自分がされたこと」とか、頭の中をいつも自分のことでいっぱいいっぱいにしてしまっていることが多くて、「自分にしてもらったこと」や「自分がしてしまったこと」にはなかなか意識が向かっていかない気がする。

それに、こういうことって日々の生活に流される中でも意外と抜け落ちてしまいがちなんじゃないだろうか…。
私なんか、事がすんだあとになって気づくことも結構あるし(そして、そのときには言うタイミングはすでに過ぎてしまっている)。


あと、気づいてはいても、余計なプライドとか、照れくささとかが枷になって言い出せなかったり、あるいは、言うべきタイミングをつかみ損ねていることって、私は結構あるんだよな…。
周囲にいるコミュニケーションが得意(そうと感じるよう)な人たちが、この手のことばをさらっと、タイミングを逃さず言っているのを見ては、「やっぱ違うよな…」などと、思うことも。

かといって、癖づけてしてしまうもまた問題なんだろうな。
言葉そのものが軽くなってしまうだろうし、なにより気持ちも薄れてしまいそう…。


まあ、こうやって変に気負ってうことが、また、かえって余計に言いづらくしてしまう部分もあるんだろうとも思うんだけど。






Last updated  Jun 16, 2007 01:34:00 AM
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Jun 13, 2007
愛と友情のブログスフィア罵倒ダメ☆ゼッタイ×ナンデスッテ・マップ0.2
うどんこ天気 さま】

私は基本的な感覚としては左上なのかな。でも、時々ネタかマジかの判別のしにくい罵倒のやりあいなどからトゲトゲしさのようなものを過剰に感じ取ってしまい、不快感が催されることもよくあるので心情的には右上に近いのかもしれない。

とはいっても、「潔癖」というわけでもないつもりで、基本的に当人同士、コミュニティ同士で容認されている分には、別にかまわないんじゃないかな…と思っている。

それに罵倒とまではいかなくても、ちょっとした軽口の叩きあいや、からかい、いじりなどなら、ネット上ではともかく、オフの場では、時々私もやられたり、やりかえしたりしていたりはするので。


罵倒云々にかぎらず、特定の集団や組織などにある程度長く関わっていたりすると、その集団の中で、他の人に対するちょっとしたわがままやちょっと困った行為を行っても、何故かとくにおとがめもなく容認されてしまうポジションにいる人というのが結構出てくるように思える。

私は、そういう人に振り回される側であることが多いと感じるせいか、その人の一見傍若無人とさえ思えてしまう行為がなんとなく容認されれていることに、強い不快感を覚えることが多いような気がしている。

ただ、私自身、所属する集団に対してはかなりの迷惑をかけているにちがいないはずで、自分が気づいていないだけで、私だって本来なら許されざる部分を容認してもらっているのかもしれない。


罵倒しあえる関係での許せる罵倒の許容範囲の見極めが難しいな、というのはよく感じているところ。それ以外だと、周りから、なにかとからかわれたり、いじられたりするようなポジションの人がいる集団でのいじられる側の許せる許容範囲も同様なような気がする。

私が鈍いからなのかどうかはしらないが、こういった関係の見極めに対しては、その集団などから少しはなれたところに自分がいたりすると、うまく判断ができていないことがよくあって、絡まれたりした場合、ネタにマジレスをしてしまっていることも多い。


ただ、場合によっては当人同士ですら、明確な許容範囲が互いに違っている場合があっても不思議ではないとは思う。

許容範囲内だと思っていたやりとりが、実はただ単に我慢してくれているがゆえに表面化していないだけでおもいっきり地雷原に踏み込んでいて、何かをきっかけに鬱積したものがあふれてしまい、トラブルになってしまう…なんてこともあるのかもしれない。


どちらにしたって、通常のコミュニケーションにたいしてすら、うまくいっていないと感じてしまう私などが手を出せる領域ではないなぁと、勝手に思っていたりはしているんだけど。






Last updated  Jun 14, 2007 12:19:48 AM
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May 22, 2007
「鈍感」よりも「過敏」な方がいい。オオカミの遠吠え通信さま】

私は、どちらかと言えば「敏感」な方に入ると思う。

とはいはいっても、私の場合、全ての言葉に対して「裏」を読めるというわけでもなく、自分に向けられているのかどうか怪しい「悪意」や、自分にとって痛みとなりうる言葉にばかり過剰なまでに裏読みしてしまっていたりする。

逆に、「言葉こそ乱暴だが、本心ではそうではない」などとという場合は、相手との付き合いの長さなどに関わらず、額面どおり受け止めてしまいがちだ。
冗談めかしたからかい言葉なんかもそうで、よく私は相手が本気かジョークかを見極められないまま、「ネタにマジレス」をしていることがある。

おそらく、ストレートではなくて遠まわしに要望や本音とかを伝えられたとしても、それを察することなく、そのまま流してしまうんじゃないだろうか。


また、私は、自分が傷つけられることにこそ敏感だが、そのわりに、自分の言葉が誰かを傷つけるということに関しては、どうも敏感とは言いがたいようだ。

そのため自分の心無い言葉で誰かを不用意に傷つけてしまったりすることも多く、その度に、自分が発した言葉の威力に対していかに配慮がたりなかったかを思い知らされる。

結局私は、自分への痛みに敏感なだけで、言葉の「裏」を読み取れるわけではないのだろうと思う。


どうせ、敏感であるのなら、自分への痛みに対してだけでなく、他の要素に対しても敏感になれないと、その敏感さを生かせないように思えてならない。

自分に対するネガティブ要素に対してのみ過剰に裏読みするというのでは、「鈍感」な人とそう変わらないのではないだろうか…。






Last updated  May 23, 2007 01:10:08 AM
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May 13, 2007
諦めたらそこでコミュニケーション終了ですよ べにぢょのらぶこーるさま】

自分が意図した通りに相手に気持ちが伝わらなかった場合、
誤解されている部分をちょっと訂正するか、注釈的な説明を付け加えれば済む話なのに、
「あぁダメだ、じゃあもういいや」と、理解されることを早々に諦めてしまうのです。

そういうところは、私にもありそうな気がするな。

必ずしもそうするってわけでもないんだけど、話していて「なんか、これ以上言っても、ダメそうだな」って感じてしまうと、もうアウト。「ん~、まぁ、そんな感じ…」などとお茶を濁してしまう。

何度か特定の人と、そういうやりとりが続けば、その人に対して「言うだけ、無駄な人」というレッテルを貼ってしまう。

人間関係じゃなくても、趣味や嗜好なんかの話題とかでもそう。周囲の何人かで、ダメだったら、もうその趣味・嗜好は、自分だけのものになる。

「どうせ、言ってもわかってくれないし…」というつぶやきと共に、全て飲み込んで諦めてしまう。



ただ、この「どうせ~」が、ときどき厄介なことになったりする。

どうやら、この言葉とともに飲み込んだものの中に、かなり後のほうまで残っていたりするものがあるようで、そういったものは普段は意識していなくても、何かの拍子にひょっこり顔を出したりすることがある。急速に膨れ上がったりすることもある。

あいつが「言うだけ無駄」なのは、散々わかっているはずなのに、いつもなら「もう、いい」で終わるはずなのに、なぜか今日はそこで終わらない。どうしても、わかってほしくて堪らない。

で、ついには抑えきれず、なんとかしてこっちの意図をわからせようとしだしたりする。ものすごい勢いで。

趣味なんかでも、相手の反応をみて「脈あり」とか感じてしまったら、そこから暴走してしまう可能性がある。それこそ聞いている相手が引いてしまいそうなぐらい。



諦めているつもりでも、全然諦めてなんかいなかったんだな…と、その時になって始めて気づいたりする。

自分では、いつも「どうせ~」と思った時点で全て諦めて終わりにしているつもりでも、なかには「わかってくれない」というオブラートにくるんで、「わかってほしい」って思いを無理に飲み込んでいることがあるのだと思う。

ひょっとしたら、いつもそうなのかもしれないけれど。






Last updated  May 14, 2007 12:14:34 AM
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May 1, 2007
冷却期間。オオカミの遠吠え通信さま】

私の場合、一度、友人と呼べるぐらい親しい関係になった人に対して、ある日突然に、何かと癪に触ったり、顔を見るだけで不快になったりするようなことは今のところはなかったりする。

ただ、それは私がここ何年も、友人たちとそう頻繁に顔をあわせることが少なくなっているからなのかもしれない。大抵一ヶ月に一度会えればいい方だったりするから。


ふと考えてみると、いがみあったり衝突する機会が多い人物ほど、以外にお互いに顔を合わせる機会が多いような気もしている。近くにいればいるほど、顔を合わす機会が多ければ多いほど、相手の不快に感じるところばかりが目に付いてしまうようになるのかもしれない。

となると、現在友人として、親しくしてもらっている人たちも、一緒にいる機会や時間がもっと多くなれば、ひょっとしたら、その人への感情が変わって。疎ましく思う時が来てしまうのだろうか…。あるいは、逆に私のほうが、友人に疎まれる時が来ることだって十分考えられるな。


相性とか好き嫌いという部分も含めて、その人とうまくやっていくための距離間というものがそれぞれにあるような気がする。

好きな人ほど、もっと一緒にいたい感じ、嫌いと感じる人ほど、なるべく顔をあわせたくないと感じてしまうのは、その距離感をどこかで意識しているのかもしれない。

そのことを置いても、互いに近づきすぎていれば、不快な部分に目がいく分、かえって見えなくなってしまう部分というのが出てくるのだろうな。

一緒にいるうちは気づかなかったけど、離れてみて初めて気づいたことっていうのは、結構多いように思えるし。






Last updated  May 2, 2007 01:17:33 AM
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Apr 13, 2007
非コミュとは固定した属性ではないのかもしれない光と風と明晰夢さま】

内向的な性格やコミュニケーションにおける苦手意識などもあって、普段はなかなか自分から積極的に会話をしかけられないけれど、そんな私でも普段の消極性が嘘のように饒舌になっている時はあるんだよな。

自分が会話したくなる話題を振られるとか、話をしやすいと感じる相手とか、私が饒舌になれるきっかけというのが、いくつかあるんだろうと思う。

非コミュを自称しながら、ネット上ではコミュニケーション達者なように見える人っていうのは、ネット上において、自分が話しやすい空間を得ている人なんだろうな、と思う。


ただ、私の場合は、ネットでも現実でもそんなに変わってないように思える。

一回の記事の分量や、ブログを書いている期間などから、一見饒舌に見えないこともないのだけど、私の記事は会話というよりひとりごとだとおもっているので、コミュニケーションをしているという意識はあまりない。

それに、自分のサイト以外でコメントしたり、トラックバックを送ったりすることもしない殆どしない(というかできない)ということからも、社交的とは言いがたい。

結局、現実においてばかりでなく、ネットでも私は引っ込み思案であることに変わりはないんだな。


非コミュと称する人のコミュニカティブな側面のみを見れば、この人のどこが非コミュなのかという問いが出てくるのも当然のことであると思う。しかしその振る舞いは、現実において圧倒的な重みを持っている学校なり職場なりでの非コミュ性の裏返しであるという可能性は常に考えておきたい。また現実に一見コミュ強者であるように見える人達も、別の場面では非コミュたり得る可能性も忘れたくない。

普段コミュニケーションのをとっていない、取れていない分、自分がコミュニケーションできる場所ではその反動でやや過剰なぐらい饒舌になるっていうことはあると思う。私が饒舌になっている時が大抵そうだったりするし。

あと、社交性が高い人でも、話にくい相手、状況はあるんだな…というのは、自分の周囲の人を見て、最近すこしはわかってきたつもり。
一見社交的に見える人からといって、、コミュニケーションに対する苦手意識が全くないとも限らないんだろうと思う。


コミュニケーションが達者な人に対して私がよくイメージしているような、相手や状況にあまり左右されないオールマイティなコミュニケーション達者さんは、実はあまりいないのかもしれない。






Last updated  Apr 14, 2007 01:09:18 AM
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Apr 10, 2007
いい人をやめるメモさま】

嫌いというか、接していると、どうもどこか嫌な感情が喚起される人というのは、ほんと、どこにいってもいるもんだな…と感じている。

私自身が人見知りしたり、嫌なところに過敏なせいもあるのかもしれない。

その度に場所を転々と変えていくわけにもいかないのだから、ある程度はそういう人とも付き合っていくしかないんだろうとは思っている。。


『(嫌いな)相手に、期待しない、何も望まない』という部分には共感できるのだけど、その相手が毎日のように顔を合わせ、仕事や生活に身近に、密接にかかわってくる場合だとなかなかそうもいかないみたいで、いつのまにかいろいろな部分で要望のようなものが出てきてしまっていたりする。

相手に期待しないでいられるための距離感を得るためには、物理的にも一定の距離を置く必要があるのかもしれない。ことに私の場合は。


私の短気が問題なのか、相性の問題なのか、ちょっとした言い合いみたいになることはよくあって、そのときに勢いも手伝ってその要望をぶつけてしまったこともある。逆に、相手からいろいろ頼まれごとなり、要望なりをうけることもよくある。

別にぶつけてしまった要求に相手が応えてくれると思っているわけでもないし、正直、そんなに期待しているわけでもないつもり。

実際スルーされて、向こうの言い分だけ通されることもよくある。かといって、相手の言い分だけを全部飲むのも癪だから、それは応えられる範囲だけに留めたり、拒絶してみたりしている。

それでも、何度か応えてくれたこともあったから、決して意図したわけではないのだけど、結果的にぶつかりあいながら着地点を模索しているような感じになっていってる部分はあるのかもしれない。


それに、嫌いな相手ではあるんだけど、四六時中嫌いな思いを抱いているわけでも全てが嫌に思っているわけでもなかったりする。

気持ちは振り子のように揺れ動いていて、時々凄く嫌いにもなれば、とくにそういった感情を抱かない時もある。

嫌いなところというのも、何というか部分的なようで、凄く嫌いな部分がある一方で、自分も見習いたいとさえ感じる部分もある。


ちょっとしたぶつかり合ってしまうことこそ多いのだけど、そこで相手の関係が悪化して、深刻な対立を生むことは今までの時点ではなかったりする。

思ったことは、少しぐらい角が立つことでも結構ぶつけてきたりするからなのかもしれないが、トラブルに対して禍根を残すようなことはなく、覚えていても陰湿な方向に向かうもないみたいなので、実はそういった部分では、むしろ相手に助けられていたりもするのかもしれない。






Last updated  Apr 11, 2007 12:47:29 AM
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