大衆の生活思想の深化 ~「自立」の妥協なき歩み (「日本のナショナリズム」吉本隆明)
吉本隆明の論考「日本のナショナリズム」は1964年に発表され、現在[吉本隆明全集7]か、中古本[自立の思想的拠点]で読むことができる。社会情勢や政治的状況は当時と今日はもちろん変化しているが、根本的な思想は時代を超えている。著者は日本の「ナショナリズム」を[大衆][知識人][支配層]の三種類に区別した位相で考察している。「大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の〈ナショナリズム〉は、再現不可能性の中に実相があるものと見なされる。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての時代をつうじて時代を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのものの中に虚像として以外に登場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたしたち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば〈内観〉することからはじめる以外にありえないのである。大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へとくりかえされて、消えてゆく無意識的な〈ナショナリズム〉は、もっともよくその鏡を支配者の思想と支配の様式のなかに見出される。歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即自体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすることである。このような問題意識にたいして知識人とは、大衆共同性から上昇的に疎外された大衆であり、おなじように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。わたしたちは、日本の〈ナショナリズム〉を、この大衆〈ナショナリズム〉と、そこから上昇的に疎外された知識人の〈ナショナリズム〉と、大衆〈ナショナリズム〉の逆立ちした鏡としての支配者の〈ナショナリズム〉に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならないのである。」ここでの「逆立ち」とは著者の造語で「(逆立ちのように)どちらが正しい普通の姿勢で、どちらが逆であるかの価値的区別のない、相互関係的概念」が分かりやすい。「大衆自体は、記述者として参加するやいなや大なり小なり知識人となって自己離脱するものであって、そこには、どのような等価関係もないのである。このことは、はっきりさせておかないと、おおくの誤解がうまれる。」「昭和期にはいって、大衆のナショナルな心情は、さらに農村・家・人間関係の離別、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものを、〈概念化〉せざるをえなくなるところまで移行した。…支配層は、これに対し、経済社会的には大衆の〈ナショナリズム〉の最後の拠点である農村・家族にに対する資本制的な圧迫と加工を加え、政治的には、大衆の〈ナショナリズム〉の〈概念化〉を逆立ちさせたウルトラ=ナショナリズム(天皇制主義)によってこれに吸引力を行使したのである。」「それは満州事変以来の戦争への突入と、一連の右翼による直接行動の思想的な支柱を形成したのである。」「戦後の大衆〈ナショナリズム〉は、ナショナリズムのウルトラ化もゆるされず、また〈ナショナリズム〉の社会化もゆるされずに、その基盤である農村を戦後資本制によって収奪されているというところで、思想的なアパシイ化(政治的無関心)をうけつつあるということができる。…この大衆〈ナショナリズム〉の現状は、いぜんとして、戦後日本の資本制とその影の部分に亡霊のように存在している戦後天皇族の存在の在方に、逆立ちした鏡を見出している。」そして、我々はこの大衆の「ナショナリズ」と、どのように向き合っていけば良いのだろうか。「生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配に対しても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の〈ナショナリズム〉の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。ここに『自立』主義の基盤がある。のぞき見の興味と、会社の重役にたいするような畏敬と、漠然たる自然感情による憧れと人気の象徴として、大衆ナショナリズムはみずからの鏡を支配層に見出している。これらの大衆〈ナショナリズ〉の〈揚げ底〉化を、土着化にみちびく道は、政治的には、資本制支配層そのものを追いつめ、つきおとす長い道と、思想的には、大衆〈ナショナリズ〉の〈揚げ底〉を大衆自体の生活思想の深化(自立化)によって、大衆自体が、自己分離せしめるという方法以外には存在しないのである。…妥協のない歩みは、長く困難につづくとおもう。」 ~ルソーの「存在するものと存在すべきものとはつねに一致しているという特性」である『一般意思』は、吉本のいう『自立』しようとする大衆が見出すものであろう~【中古】 自立の思想的拠点 / 吉本隆明 / 徳間書店 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】