カテゴリ:カテゴリ未分類
迫害 家庭内暴力 幼児の目からみて・・・
話は戻り、子供の頃にあったことです。私の母が宗教に熱心に打ち込み始めると父に殴打を受けたことです。 昭和四十年中ごろ(1970頃)私の家庭に留まらず、エホバの証人の既婚の女性信者に多く起こり、夫の家庭内暴力から夫婦別居さらには離婚にまで発展することが多発し、それが広範囲に問題に成り始めた時期でもあります。 切っ掛けは集会に行くことに夢中となり、父が帰宅するときは不在が良くあったからでした。火曜金曜日の夜には、日曜日には朝早くと、普段はしないようなおめかしを母はして出かけていきます(エホバの証人は清さを大切にする)。これが積み重なっていったある日、其れは金曜日の集会の寒い夜に家に帰ってきた後に起こりました。 父が、普段着に着替えた母を捕まえ、「俺とエホバとどちらが大事だ!どっちをとるんだ!」と迫りました。 母は暫く黙っていましたが小声で何かしゃべると、いきなり父は「お前はエホバをとるんだな!」と怒鳴りつけて数回、力をこめ背中から脇にかけて母を足蹴にしました。母は吹っ飛んで転がり、その体からは蹴られるたびにドシンドシンと鈍い音が響き、蹴られるごとに「ウッウッ」と声が漏れるのが聞こえました。私は幼児ながら母が死ぬと思い「やめてー!」と叫びましたが、父は「お前は引っ込んでろ!」と怒鳴り返して止めようとはしませんでした。 しばらく横になって動けなくなっていた母がムックリと起き上がり目をかっと開いて居間にいる父に向かい何やら自分の考えをキッパリと語ったあと(子どもである私は其の内容を理解できなかったが捨て台詞のような内容であった)何も持たずそのまま家出していきました。 幼児のわたしは、咄嗟に、父と母のどちらを取るかの選択を迫られました。 幼児の男の子には、エホバへの信仰よりも何よりも親の愛情の方の問題が重要です。選んだのは母でした。 正確には、母の愛情、を選らんだのです。もうひとつは、父と母との暮らしが今日で終わることへの恐怖を感じたからです。それは幼児にとり暗黒に放り込まれる様なものです。 急いで玄関を飛び出しました。玄関の靴は散乱していて下駄と運動靴を片足にそれぞれ履き、暗い夜の裏道を遠く早足で歩く母の姿を、走って追い掛けて腕を引っ張り静止させようとしました。 母は本気でした。母は見向きもせずに私を振り切って歩き去ろうとしました。 私は半べそをかき喚きながら腕にぶら下がり続けていると、歩くのを止め、無言でわたしを暫く見つめていました。 そして母は「家に帰ろう」と一言つぶやきました。 ホッとなんとも言えぬ安堵感に浸った私は、母の手を曳きながら帰りました。 後で母の背中をそっと見たら、いや見せてくれたのだが、それはあざだらけであった。 ※実は父は、私と母が家に不在の時に若い女性を家に上がらせていて、母より先に集会から帰宅した時に私は幼児ながらに何度か目撃していました。ところが母が其の後直ぐに帰宅する頃は、さっきまで居た若い女性は痕跡を残さず消えてしまうのです。お茶の飲んだりしてくつろでいたのに・・・。 大人になって証人たちを観察してみて、上の出来事を考え直してみる事にしましょう。 エホバの証人は自分達の組織の出版物(ものみの塔やその他の書籍研究で用いるような副読本)を通して勉強していくと、それに書かれていることから得た教義を一言一句守ろうとすることが、このような家庭内の紛争の原因となるようです。 エホバの証人の教育は、自力で考える力を育てようとしません。(それは独立の精神と称して忌避する。その精神の象徴がサタン:理由はエホバの教えから独立した考えをもったから。)そして、ブレインウォッシング(洗脳:中国共産党が生みの親)の為の初歩の段階でもあります。 また女性の大多数は、教えられた事にまじめに勉強し身に着けるが、ある事象を多角的に捉えられず、一つの面からしか捉えないため性急に断定してしまう。つまり思い込んだり信じこんでしまいがちになる。これと関係するのかエホバの証人の世界は女性信者が圧倒的に多い。 数年前に、同じ会衆のある古参の姉妹と話をした時「昔は家庭や家事に留意することを忘れて神権的なことや集会に出席することに熱心な姉妹が多かったから家庭内で紛争が絶えなかった」と私が訪ねると その姉妹曰く「あのときは出版物や書籍さらに集会で、(エホバの証人の)組織が、家族や家事を大切にしながら集会の出席や神権的な事と両立する事を提案してくれなかった(教えてくれなかった)から」 と大真面目に答えてくれた事が思い出されます。 これが大方の実態なのです。出版物の記述とか組織の提案を言う前に、社会通念上の物事の良識が前提になっている筈です。 未信者の夫をもつ姉妹で実に仲良くやっている人も当時からいたものですが、それらの夫婦は聖書の知識とかエホバの証人としての霊性の高い低いにさほど関係はなく、いかに妻が釣合い(家族と宗教)の取れた見方が出来て、夫婦相互の意思の疎通がどれだけあって信頼関係を成り立たせてているか(不信感を取り除いているか)、そしてなんと言っても、妻の信仰への理解を夫が持っているという事が共通しています。 今のエホバの証人はこの点をかなり注意して、私が子供の頃よりは宗教上の理由で夫婦の暴力というような表面的な大きな問題は起こらなくなっていますが、団塊の世代後期から四十代の男性は、余り妻のの信仰へは、私の父の世代(七十代)の頃と異なり干渉しなくなっているのも影響していると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.08 01:54:09
|