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テーマ:阪神大震災から9年(24)
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その時、私は実家の二階で、すぐりと二人 布団で寝ていた。 外はまだ真っ暗で、枕元にある小さな光だけが部屋を照らす。 【急激な揺れが家を襲う】 と同時に、突然、闇に包まれる~そしてモノが倒れる音! 階下で母が叫ぶ。 私はただ呆然と、けれどすぐりを上から抱えるように包み込む。 足がすくんで動けない。家が軋む音~恐怖だけが襲い掛かる。 何も見えなくなった部屋の中が、大きく揺れているのだけが分かる。 信じられない気持ちと恐怖の中、すぐりは私の下で必死に抱きついていた。 何分が過ぎたのだろう? 徐々に揺れは小さくなり、動きが取れるようになる。 それでも電気はまだ点かない。 母が懐中電灯を片手に階段を上って来た。 「怪我は無い?」と母は言い、部屋の中を照らす。 その時に浮かび上がった「姿見」の残骸。 足が折れて横向きに倒れていた。 「さっきの音はこれだったんだ。。。」 もし正面に倒れていたら、私の上に倒れていただろう。 母も寝室にある「物入れ」が、ベットヘッドの後ろ側に倒れて助かったと話す。 そして私は暗闇の中、papaに電話を掛けた。 電話は直ぐに繋がった。 (その後は全く繋がらず) 「凄い地震だったね。そっちは大丈夫?お義父さんの様子はどう?」 神戸の実家で同居していた私達。(義母は結婚前に他界している) 「タンスの上のダンボール類が、父の足を直撃したけど大丈夫。 それより台所やリビングは・・・足の踏み場も無い」 papaの話によると、「寝ている和室の婚礼タンスを支えるのに精一杯だった」と語る。 関東系の会社に就職していたpapaは、関東での生活経験がある。 その時に「地震が起きたら、寝ている部屋のタンスを押さえる」事を学んだのだと言う。 私はとっさに「水は出る?もし出ていたら、お風呂場とかおなべに汲んでおいて。 万が一の時があるから。。。」そう話したが、papaは 「大丈夫~水道は出るし、心配無いよ」そう言った。 これがpapaの大きな間違い~その後『水道』は全く出なくなり、 『水』確保の為、8時間も並ぶ『給水車生活』になっていくのである。。。 後にpapaは、大阪にある会社に通えない為、甲子園にある独身寮に身を寄せ、 義父は明石の知り合いの家に厄介になる~事となる。 そして私は『ガス』・『水道』が普及するまで、実家でお世話になった。 そして神戸の実家付近では、道路が割れ、ガスが噴出し、それに引火。火柱が立っていたと言う。 近くの中学校では【断層】が校舎を貫き、真っ二つに分かれてズレていた。 その延長上にある団地も同じこと。。。全壊だった。 私の友人は、我が家の団地の目の前にある 「10階建てのマンションの9階」と「10階」に住んでいた。 台所のなべは吹っ飛び、部屋全体がカレーに変わる~冷蔵庫は食卓に食い込み、 食器棚は扉が全開~お皿もコップも跡形も無い。 そして寝室。。。やはり婚礼ダンスが寝ていた家族を襲った。 全部のタンスが前のめりに倒れてきたらしい。 しかし6畳という間取り、しかも横幅の無い部屋だったことが救いになった。 『向かいの壁』や『押入れの襖』がタンスを支えてくれたのだと言う。 10階の友人は出産をした直後。 赤ちゃんはいつもベビーベットに寝かしていたが、 その日に限って一緒に布団で寝ていたのだと言う。 そして【地震】 ベビーべットの中には、タンスの上に積み上げられていた「収納box」が直撃していた。 1月でもないのに「震災について」の題材を取り上げたのは、 朝日新聞の第二社会面で「迫る・巨大地震」という見出しを見つけたから。 私の話に良く出てくる同じマンションの友人達。 【地震】に対しての危機管理は、全くと言っていいほど無い。 私が《非難袋》を常時置いておくのを、「心配性だね~」と言う。 「そうなったら、そうなった時よ!」とも言う。 助からなかったら、《非難袋》は必要ない。 けれど助かった時、最低限の食料や水は必ず必要となる。 首都圏での【天災】は、地方とは比にならない。 そして。。。救助が来るのは3日後だと、心得て置いて欲しいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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