おお、動き出した。
「子猫殺し」を語る――生き物の生と死を幻想から現実へ 坂東 眞砂子 (著), 佐藤 優 (著), 小林 照幸 (著), 東琢 磨 (著) 双風舎 (2009/2/26) http://sofusha.moe-nifty.com/blog/ ISBN-10: 4902465159 ISBN-13: 978-4902465150 発売日: 2009/2/26 「ドリームボックス」小林照幸さんとの対談が楽しみ。 佐藤 優さんは太ってること以外は、現代ではまともすぎる人に思える。 寺山修司さんを思い出した。いつまでも健康でいてほしい。 ファシズムでくくっちゃうと、(見えすぎて)ポイントが狂ってしまうような。因習的・土俗的だけど、ちゃんと近代に適応してちゃっかり生きてるみたいな坂東眞砂子さんの(身体的な・生の)声が聞けるといいな。 「無痛文明」(森岡正博さんは坂東さんの出身高校の後輩)ということばを思い出して、クリアに構造がわかったように思えた。 彼女があのエッセイで言ったことは次の2つだ。 1.(他人がそうするのを否定しないが)私には不妊処置は不自然であるように思えてできない。 2.だから私は裏庭に子猫を捨てている(殺している)。 この騒ぎは2.について起こった。 1.についてはどうなんだろう。 小谷野敦さんがつとに指摘されているように、ひとつの生命の自由を奪い、私的所有し、種を商品化し、そのものから〈癒し〉のような快楽を得ることは「殺生」でしかない。彼等が得ているものとほぼ同等量の(負の)エネルギーが「保健所の大量虐殺」という形で現れている。「大量」の意味はペットの商品消費量と同じものであり、ペット商品流通からの利益がなくなれば「殺生」は、前近代で行なわれていたような、最小単位のものになる。山から下りてきたクマの処分と同じ感覚で、生活しているものがその生活の延長上で行なうものになる。 坂東さんのように、保健所や獣医の「安楽死」などにまかせずに、その自分の所業(殺生)に直接かかわろうとするとどうなるのだろう、というのが、彼女のエッセイの2の顛末だ。 この無痛文明=消費文明の中で生きているわたしたちには、それが許されていないということなんだろうと思う。 人工的にコントロールされているのを先のAERAで読んだ。(犬を殺さないドイツの常識,AERA,朝日新聞社,2009.9.7.)日本もいずれそうなるのだろうか。秒読み段階なのだろうか。 『傀儡』(「無痛文明」から自由な人たちの物語)がゾクゾクするほど面白い。何度も読み返している。そのたびごとに、物語の中の沙依拉夢の移動とともに、(言語化できない)幸福の中に生きているのを感じる。いまのところ、まだ私は。
カテゴリ:読書
アミダサマ,沼田まほかる,新潮社,2009.7.20.
ミハルは死んだ(殺された)子供である。 ミハルの呼ぶコエ(声)が聞こえるものが3人いる。 この物語の語り手の位置にいる浄鑑、その母の千賀子、そして悠人(ユウト)だ。 浄鑑は滅んでいく他の2人を止められず、見ているだけだ。 千賀子はミハルを育てた無職の父綿本に金と(自分の)性を提供し、保護する。その供応の跡を浄鑑は見つけるが何もしない。むしろ母の身体と精神をおもいやり、後方支援する。 そして千賀子は綿本を跡形もなく殲滅する。 浄鑑は当然のようにその後始末をする。 悠人はなにをするかわからない男だ。 悠人の自由な行動を彼の愛人の律子(母性)と祖父の多摩雄(社会=法)が体を張って阻止しようとする。 束縛する。 悠人には2人が結束しているように見えてくる。そのシステムが理解できるように思われてくる。 祖父を殺し、彼は解き放たれ、ミハルの元へ走る。 ほとんどミハルまで到達したと思われたが、律子によって悠人はこの世に引き止められる。 私もおととしの暮れにガザ爆撃で死んだ(殺された)少年の死体を見てから、年賀状(あけましておめでとう)が書けなくなった。 何が(おめでとう)だ。 私にもミハルの呼ぶコエが届いているのだろうか。
Last updated
2010/01/05 04:06:48 AM
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