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刹那と永遠 - Moment and eternity -

・lunaさんの芝居帳(1)


●TPT「葵上」・「班女」


「葵上」は、かつて溶け合った二人の愛憎。
「班女」では一転して二人は初めから対立、醜く罵りあうも結局どちらも愛の勝者には成れない。
近代能楽集の中でこの2作品の連演は、男と女の埋められない溝を描いている芸術作品と確信しています。





さて、「班女」ですが こんな印象を持ちました。

最初 老練な女の独占欲に嫌悪感を、
中盤 自信に満ちた美青年の傲慢さを、
最後 若い女の残酷さを感じました。

醜い争いをしている二人を尻目に心の底を見透かしている狂女。
美と醜、正気と狂気、勝者と敗者がオセロゲームのようにめまぐるしく代わってゆき、私を翻弄します。
吉雄を「しゃれこうべ」と花子が言ったあとの実子の勝ち誇った表情。けれどそれも一瞬。
初めは実子に保護されている花子に見えたはずなのに、二人の生活は何も変わっていないのに、最後は花子の支配下に堕ちた実子が見えてきます。

結末は、実子とって「私だけの花子さんになった」けれど、決して報われない。実子など眼中に無い愛の勝者花子は、狂気の世界で自由に愛する人を待っている。

反対に手折ることも、逃れることも出来ない花を手に入れ、眼に見えない愛の牢獄で生きていくしかなくなった実子は、敗北者にしか見えません。

「葵上」は愛憎と言っても3人三様の哀れも感じますが、「班女」は男と老若の女の修羅を感じました。




●「武田信玄」  ~キミノヒカリ、キミガヒカリ~


「この義信この期に及んで偽りの笑顔など見せぬ
幼少の頃より父上の不正義 その嘘偽り憎めと教えたのは誰か?母上でありましょう
その母上から嘘偽りを申せとは何事か ! 恥を知れ!
某父上の不正義と戦って居るのじゃ 敵に頭など下げぬ 死んでも頭など下げはせぬ」
17年前 役者に惚れた瞬間です。
義信は、嘘妥協の無い真っ直ぐな青年だけれど、ここ一番で軟弱な『大甘な坊ちゃん』。跡取り大事で母、八重、飯富、重臣が庇うことを良い事にスルスルと後ろに隠れてしまう弱さが事態を最悪なものにしてゆきます。武者らしく愚直に父信玄と対峙していれば互いに理解できたろうに…
辛いけれど心惹かれるシーン
蟄居させられ、母三条夫人の説得を聞く虚ろな姿の義信が
「心偽ってもよい 嘘偽り申してもよい 何が何でも父上のお許し得て ここから出るのじゃ」と諏訪の四郎勝頼に家督奪われることを危惧する母の叱咤を聞いた途端、みるみる目が甦り『あの鋭い目つき』に変化してゆきます。
「この義信この期に及んで偽りの笑顔など見せぬ
幼少の頃より父上の不正義 その嘘偽り憎めと教えたのは誰か?母上でありましょう
その母上から嘘偽りを申せとは何事か ! 恥を知れ!
某父上の不正義と戦って居るのじゃ 敵に頭など下げぬ 死んでも頭など下げはせぬ」
三条夫人の目がみるみる涙であふれてきます。
見るべきシーンは多々あれど
父と母と子の今までの関係が説明科白でない科白で明確に甦る
子が真っ当に生きようとすればするほど母の絶望感が募る
脚本の力 演出の力 役者の力を感じました。





もう1シーン
憑物が落ちたと一瞬で理解できるシーン『あの柔和な表情』と前述のシーンは今更ながら、
そうです、同じ役者が演じてるとは思えない、心からの発語と聞こえます。
(笑)クドイようですが… とても24歳の演技術とは思えない 惚れました。

物語に戻ります。
前述「敵に死んでも頭など下げはせぬ」と言い放った義信が
信玄に対し「ありがとうございました」と頭を下げる
声色が僧侶となった弟 竜宝 の声色と一緒です。
此処へ行き着く前に信玄が義信の処分に迷い、寺の住職に助言を求めている時に竜宝が現れ、己(竜宝)が失明した時の父から受けた怯えを語り、兄の所業は父への怯え心が元であると説き、「兄上に光を、暖かき心をお与え下さい、兄上を許す事は父上自らを許す事です」と『父兄二人』を救済しようとする科白へとリンクします。
つまり もう義信は武者ではなく剃髪はなくとも僧侶となってしまった
それが自害へと繋がると…考えます。
後日談として女達は「父が追い詰めた故の自害」と信玄を責めますが
このまま生き延びても
己を救ってくれた父に対し報いることも出来ず(武者として生きていくことは出来ない)
それでは母を悲しませることとなる(四郎勝頼が家督を継ぐこととなる)
妻 於津禰には約束を守れない(父義元の敵は取ってやると約束した)
飯富や家臣(赤備え隊)の死への悼み
義信たらんとなるためには『死』しかなかった、決して信玄の責任では無いと…。


武田武者の生き方 おんなの理屈とは異なる男子の道理。
父への謀反が成功して青年期乗り越えた晴信(信玄)と、
父への謀反を失敗して青年期を乗り越えられなかった義信
涙を見せない、言い訳をしない信玄の度量の大きさ
義信死後の信玄の後姿に無常を感じずにはいられません。
寂然な場面 広間にひとり庭をぼんやり見ている信玄の後姿に義信の烈風が静かな風音と共に通り抜けます 義信最後の語り『庭の素晴しさ』とリンクします。
義信のキャスティング成功あってこそ活きてくるシーンです。
義信を思う信玄の心と私の心がリンクし、画面に義信は出てこないけれど涙する「MyBest 1」です。





余談ですが…武田と北条の家風の違いをもう少し…
義信の死後北条氏康親子の話が出てきます 父と子と守役。
若者は義信と同じく真っ直ぐな理論を展開します。
しかし氏康は少し間を空け、その場でおもむろに守役に育て方を問います。
守役はこのような発言を導き出すような教育はしていないと嫡子を突き放します。
子本人の考えと周知してから、その考えが如何に危険であるか威厳を持ってその場で言い聞かせます。

武田親子は子の言動に、まず父は直接本人に苦言を放ちます。
父子の激言に堪りかね守役が割って入り守役自らの責任にしてこの場を回避しようとします。
子は最初自らの言葉と主張しますが守役に押し切られその後ろに隠れてしまい
父親は仲裁に入ってくれた家臣に感謝する思いは否めません。
ここに家の違い、父子の有様が出てきます。
信玄は老練な戦術を操るのに何故館の内では氏康のように旨く立ち回れないのか…これはやはり青年期の父から受けた環境が影響していると考えます。
父・子・孫 全て男として不器用な生き方しか出来ない家柄であることを表現する為のように北条親子が義信の死後登場してきます。
あぁ この親子のようであれば、武田親子もあんなにも苦しまなくてよかったのに…という思いに囚われ、また広間での信玄の後姿を悲しく思い出します。 (略)




●「贋作・罪と罰」


女の慟哭 男の針眼に涙が浮かぶ。ウサギの目の様に真っ赤にした古田の眼を初めて観た。
「女が男を待つんじゃない、男が女を待つんだ」と言ってヒロインを自首させる志を持って女を想う男。奴は凄い男だ。
直球 松さんと癖球 古田さんの演技が若人の姿に見えた時、客席に川辺の匂いが漂い、大川の風が私の頬をかすめていく 野田さんは言葉(科白)で臭覚も触覚も操る。

またもや礫を投げつけてきた野田さん 大義名分に彩られた殺人への挑戦 否、そこには、声なき被害者と無関心な大衆が存在する。
その無関心な観客(大衆)に剛速球を投げつける。
二昔前になるか つかこうへいさんが何かに書いていた『今犬が人を噛殺したら新聞に載るが、そのうち人が犬を噛殺さないと載らない時代がやってくる』
逆説の不条理 価値観の崩壊 耳目では慣れてしまった言葉が皮膚を襲う。
以前は死者が出る芝居は死者について『何故死なねば為らなかったのか?』の物語だった。
最近の芝居は人が大勢殺され、殺す側の生き様は描かれても死なねばならぬ理由など問われることもなく 説明もなく ただ殺されていく。
いや、芝居の話ではない、現実に起こっている事を皆解かっているのに為す術を持とうとしない実態(観客)に礫は投げつけられている。
しかし、「良心の声に従い、血を踏み越える権利を自らに与える」を理由とした暗殺(殺人)。 
あの時代を知らない、今の現実に拱いている私が、芝居の中の『(大赦で出てきた)女は、(待つと言った)男を失った此の世で如何生きていくのだろうか 』と思いを馳せる………反面
「女が男を待つんじゃない、男が女を待つんだ」
今も胸に響きつつ、大衆(観客)と己を区別したい『観客わたし』がいる。
今夜は寝られないかも。





●「労働者M」   ~「前説」がすべて~


2月11日(土)PM7:00開演 1階G列12番
その1 『うどん、そば、うば、そどん』

以前に観た「クラウド9」を思い出した。一幕の中世ヴィクトリア朝の時代と二幕はそれから百年後のロンドン、強い立場の人間が二幕では一番弱い存在、男優が女性役を演じ、そして女優はその逆を演じる。「~らしさ」崩壊させ、性をはじめ自己本来の生き方を模索しようと訴えた演劇だった。
今日の舞台は、一人の男を想い志を受け継ぐ女と多くの男を受け入れる女
年少より世の不条理を経験しリーダーとなった男となぁ~んにも考えていない刹那の快楽に酔いしれるアル中の男
異星人も分け隔てなくcosmopolitanな一面を持つ男と陰湿なイジメを繰り返すうつ病患者
全ての役者が相反する2つのキャラクターを演じる。世にある全てのものには二面性がある。「ダイヤモンドは唯の石、一万円札は唯の紙、人間は唯の石ころ」と天才バカボンは歌う。
どんなに高い志をもって始めたことでもやがては腐り崩壊する。
死の淵を覘き戻ってきた者も同じ。
同胞はやがて上下を生み、力関係が発生し、力の、言葉の、暴力が産まれる。僅かな変化で加害者が被害者になる逆転もアリだ。
人は革命や再生と呼ぶ同じ過ちを繰り返すが残るものは男と女ただそれだけ。
終演、階段を下る頃聞こえてくる歌詞「人間はただの肉♪にく♪ニク」
そして前説での『蜷川さんおこらないでね』この唐突なフレーズに私はじんわり反応する。





2月12日(日)PM2:00開演 1階j列11番
その2 唐突に映し出された『蜷川さんおこらないでね』

プログラムに『すべてのお客さんに親切でないこと、誰もが「なるほど、分かった」と思える舞台にはならないことを自覚しています。(中略)そろそろ、分からないことを味わったり、理解するためにさまざまな感覚や思考を駆使する作業が演劇を観る楽しさにくわわってもいいですよね。(後略)』と書かれていたので勝手に解釈した。
革命戦士の久振りに聞く言葉も何処か別の国の言葉に聞こえると言ったハンナ(にせ小泉)
総括もセクトも今や別の国の言葉?
昨年舞台を観た私には「今更にせ将門を舞台に上げて、過去の挫折を美化してどうする?」と見えた。ここに堤真一を起用した意味を見つけた。
でも「にせ」ですから、「えせ」ではないのですから蜷川批判とは考えていません。皮肉程度でしょうか。





2月10日(金)PM7:00開演 1階G列14番
その3 アンコールが無いのは何故?

「3時間半の舞台 観客に負担をかけないためさ」ってかわされるかもしれないけれど…(略)3連荘の舞台、これが最後の鑑賞文です。
観劇前に読んだ「せりふの時代」でケラさんは書いている。笑いとは大爆笑だけが笑いではない、ニヤニヤもクックックもウッシッシも笑いであり、どんな笑い方であろうと笑いで満たされた劇場はアリだ。それが真に豊かな笑いの文化だ。その為に観客からとる笑いは大きければ大きいほどよいと考える役者に「そうじゃないんだよ」とやさしく説得、納得させるコントロール能力のある演出家と、不安を抱かせない台本を書く作家が必要である。そして、時間はかかるであろうが…という但し書きをつけて「観客の育成」も必要事項としている。その為には理想的なモノを観客に見せ続けることだ。理想とする笑いは、観客は受動ではない、創作の一部を担っている、脚本家、演出家、役者、観客の4者が創る総合芸術を目指していると締めくくっていた。
前説のスクリーンに台本と称してニセ堤とニセ小泉の科白と共に(観客の苦笑)とか(まばらな拍手)などが映し出されていた。そして書き手の思惑どおりの観客の反応。劇作家の演出家の計算された舞台。
緻密に台詞を立て、小さな笑いも細かく拾い集め、鍛えられた感覚で演じる役者、笑いが笑いを誘い、検閲をすり抜けた空気を敏感に読む観客、楽しい音楽で幕が下りアンコールなど無い「浅草笑いの殿堂○○劇場」、「○○新喜劇」庶民の悲喜劇を目指したのではないか。
此処で私は白状します。私の思考回路はその3、1、2でしたがその2で終わりたくなかったので、この順番にしました。この舞台で素敵って思った方、気を悪くされたらゴメンなさい。



●「ライフ・イン・ザ・シアター」



実は、私が初めて舞台を観たいと切望するに至ったのは市村正親さんです。
劇団四季の子供ミュージカル「ゆかいなどろぼうたち」の末っ子役のダンスを夏休みにTVで見たから。私が17歳、市ちゃんは24歳でした。
その9月に地元の会館にその演目はやって来た。お母さんと子供たちの喧騒の中、私は一人で観ていました。
考えれば、初めから観劇は独り、その後両親へ訴え続け、やっと20歳にお許しが出て(そんな時代でした)、東京池袋サンシャイン劇場で「JCS」再演の「ヘロデ王」を観ました。
洗練された衣装とダンスと歌に市村正親の魅力に ますますのめり込んでいき、数々四季の舞台否、市村正親を観続けました。
退団後「ミス・サイゴン」アメリカンドリームの初見に至福の時を過した。この人と同時代に生れた事に両親と芝居の神様に感謝した。そして未見の舞台も間々あるが、今も観続けている役者です。

世田谷パブリックシアター「ライフ・イン・ザ・シアター」・同劇場で爽やかに堤さんが9年前に演じていた(佐藤信演出)ジョン役をポール・ミラー氏演出で藤原竜也さんが演じた。4度目の舞台は公演後にトークショーもあったが、奇しくも皆さんが堤さんと甲府の桜座でご一緒されている同日、同時間でした。
竜也くんも努力の人 パンフレットのインタビューを読んで堤さんの顔がうかんだ。 好きで始めた役者人生ではないこと、この世界へ入ってから初めて舞台を観たこと、他にも表現は異なるが同じことを言っている。外部への「近寄るなオーラ」も……たまたま後席が藤原竜也ファンで、出待ちの竜也くんはかなり「不機嫌マン」なようです。休憩中に、その話を聞きともなしに耳にして堤さんの顔がまたうかびました。彼を苛立たす原因はわかりませんが、才能ある若い舞台人は、自己との葛藤の中でいつも板の上に立っているんだと思いました。





どうしても比較してしまう二人芝居。どちらかに着目してしまうと、片方が弱く感じてしまうのは否めない。負け続けるのかと思っていた青年は、芝居の中で成長する姿にメリハリが利いて、私には蜷川さんでなくても生きている舞台の存在を知った。
第1回目は藤原さん、2回目は市(33年来のファンなので許してね)、甲乙は付け難いが、私の心はどちらかに傾いてしまっている。
二人で役者の一生を演じている。
本人のインタビューとは異なり、演じることが楽しくて仕方がない若者から経済的に余裕も出来ていろいろな柵を背負う青年俳優へ、表情・声・立ち姿で理解できた。
脂の乗り切った役者が個人的ないろいろな問題を抱えながら演じ続け、やがて老いを迎えていく。終盤、老優が切羽詰った行為をした後、正面の鏡を通して「ありがとう」と言い、正面を向いたまま鏡で受けた若者、本当は鏡など無く素透しのかたちで観客が観るシーン。私には涙無しでは観られなかった。あの市の表情は、現実に生涯見たくないけれどリアルに観てしまった。私は、いつも板の上の役者に信じさせてもらえる芝居をよしと主張し続けてきた、今回ほど辛いことはなかった。結婚もしたし頑張ってもらわなくてはと思い、気持ちを奮い立たせて帰路につきました。(略)



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