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刹那と永遠 - Moment and eternity -

刹那と永遠 - Moment and eternity -

・lunaさんの芝居帳(2)




●「タンゴ・冬の終わりに」鑑賞文



如何言えばよいのだろう、如何書けばよいのだろう……
…言葉にすれば身体から抜けてしまいそうで……


感想は……あぁ
舞台が好きで良かった。堤真一という役者に惚れて良かった。至福の時を得る。


観劇後、最初に思ったことは、題名から男性の理想の世界とその果てが描かれたと思った。

「限られた者しか手にできぬものを得とく」し、
「最も美しい最良の時の恋人と共に踊り、疲れ果てて倒れる先は妻の胸、
やがて狂気の中、求めるものと踊り果てる」は、男性の理想が題名に表現されたのではないか。

この理由づけが納得できる緻密な演技。

幻覚と思われるシーンも含め、信じられる世界が出来上がっているからこそ他の演者の姿が浮かび上がる。

また反対に、他の安定した演者により彼のブレナイ演技がうまれる。

蜷川さんが「なぜ彼を起用したのか?」私はこたえを感じた。





2度3度と観るうちに、盛の科白にもあった「すごい夫婦愛の物語」として私には見えてきた。

「恋は愛となり情へと変化する」誰かが言った言葉を思い出す。

私の知る冬の日本海は、鉛色のネットリとうねる海である。

夫を追って駅に降りたった女にはどんなふうに見えたのだろう。

ぎん、おんな45歳。女性としての自信をひとつずつ失う年齢に差し掛かっていることを、
元女優は市井の女性より敏感に感じていたのではないか。

冒頭の会話は物語る、いつの頃からか素直でなくなっている夫婦。

二人が発する子供じみた交信も、愛の戯れから素直に口に出来ない言葉の代わりへと姿を変えている。



その中で夫の気鬱(今で言えば鬱病あるいは男性更年期障害か)をどうにかしたい。
心情とは裏腹な理性的に古風な方策を取る。

男性から見て、理由が如何であれ妻が仕立てたシチュエーションで女性に恋するものなのだろうか。

夫は、女優(水尾)の向うに「限られた者にしかない孔雀のきらめき」を感じた。
これは恋心というより魂の求心に思いたい。

ただそこに、夫の為に何でもすると妻は公言しながら、同時に裏メニューとして
「愛の踏み絵」を夫に突きつけていると感じてしまった。

若い頃から共に戦い生きてきたぎんは、彼を救うべく(しいては己を救うべく)リスクのある行動を実行して、
女として二番手に降格し、やがて姉という身内にされる。

しかも、夫の狂気は母親の愛を試す「赤ちゃんがえり」という幼児行動のようである。



ワザとではないが、少しずつ狂気に侵食されながら姉への数々の発言
責苦の言葉が、ぎんには確実にボディブローとして効いてくる。
最後の砦、彼に魅かれる大きな部分「俳優としての擢んでた才能」は、いまや狂気に全て
を食い尽くされ、孔雀の剥製の残骸となる。

盛が大事に抱きかかえる残骸は盛自身である。

視覚として認識した彼女の耐え難い絶望が頂点に達した時、思わず「あたし、おりる」とタオルを投げ込んでしまった。





男も女も、「自身の不様な姿を見せられる人」と 「自身をカッコよく居させてくれる人」とドチラを愛し、
愛されると思っているのだろう。



二人の最初のシーンでの「多分。」と「多分か。」は、男のテレと「来てくれて嬉しい」と口にしてくれない女の寂しさがある。

しかし、彼が彼女の気持ちを汲み、さっきまでとは違う「ホ……」を精一杯表現したことを、
彼女は本当に理解しているのだろうか?

北国シネマ
衰える自覚の淵で盛が受け入れた女はぎんであり、如何呼ぼうと誰と踊ろうと、
いつの間にか身を委ねていることは紛れもない事実である。
知的な愛情で接するぎんに彼は、「俳優清村盛」ではなく、狂おしく「一人の男」として愛して欲しかったのではないか。

そこに「ロッキー2」の盛の解釈を、如何しても繋がりを感じてしまう。

その証拠に損得無しに一途に想う女が、妻に安住したまま夫の回春を他の女に委ねるだろうか、

二週間も考えてから北国へやってくるだろうか。

彼は、傷みの中で妻の正体を見透かし、突きつけた踏み絵の答をここで出している、

「あんたのやさしさはいつもそういう無責任なトゲがかくされている。」

予言どおり、彼女は最後の最後に夫を見限り手放す。



この複雑な夫婦の愛の鬩ぎあいは、破滅へと転がり両者敗北したのか。

ぎんの最後の科白が私のこころを引っ掻く。

彼女に口惜しさはあっても慟哭はない。

愛に満ちた「ホ…」が聞けた頃の盛だけが きっと ぎんにとっての盛なのだ。

彼のために何だってすると言う覚悟は、何処までの覚悟か疑わしい。

どんなに涙を誘う佇まいを我々が見たとしても、水尾が主張するように騙され
てはいけない。

限られた者ではない元女優が、「悲劇のヒロイン」に酔っているだけなのだ。
「 無責任なトゲ」しか持ち合わせていない女。予言どおり、盛は悲しく複雑な勝利を得て逝ってしまった。



しかし、その証である魂(あでやかな孔雀の一閃)のすみかも5月に取り壊される。

事実は、ぎんの胸の内のみとなり、真実は耀変してゆくであろう。
「私が愛した夫は、とても才能のある俳優でした」と。







盛ぎん最強マッチに比べ、連水尾夫婦の関係は名前どおり希薄である。

水尾は何故に北国シネマに奔ったのか?何故に連と一緒になったのか?

安息の結婚だとしても水尾は盛にされたことを、いま夫(連)にしていることになる。
心と頭がバラバラである。

己の傷みには過敏であるが、加害者に廻った時は無意識に残酷である。



それほどまでに元恋人に執着するなら、盛そのものである孔雀(ボロ座布団)を何故『孔雀だ』と言って包んでやらないのか。

「だってそれは孔雀じゃないわ、うす汚いただのボロ切れよ」と愛する男を誹謗していることに気がつかないのは、

彼女もまた「限られた俳優(女優)」だからだ。



大方の劇評は、ぎん同様に再び水尾に恋する盛と解釈しているが、上述どおり私はそう思っていない。

その解釈では、科白や反応に破綻を感じてしまう。

やはり水尾の向うの「きらめき」に心奪われているだけで、盛には ぎんだけであると考える。

劇作家が、デズデモーナが水尾であると盛に一瞬我に還えらさせたのは、そのことを知らしめるためと私は考える。

その時、盛に「将門」の桔梗に向けた愛の言葉はない。

私たちは、彼が今の今まで水尾とは認識していなかったことを知るだけである。



ぎんという皮膜がなくなった盛は、水尾に隷属する連の手に降される。

限られた者の狭間で己の惨めさと戦ってきた男優の最後の行為は慟哭そのものである。



彼こそリアリストではなく愛の巡礼者である。

彼を待つのは、(幾度とある妻と盛を引き離なすチャンスを活かせなかった)後悔だけの
暗くネットリうねる海底である。

引退宣言に感動した日、再びこの言葉を耳にする時に己は全てを失っている事など、彼は考えもしなかったであろう…。



そのほかに気になったこと毬谷友子さんの贅沢な配役について

どうして信子役と思ったが、新人さんでは出来ない役
毬谷さんで正解と考えに到った。恋に愛に苦しむ二人の女性と比較して、
信子は足元の仄かな愛に喜びを感じ、ダサい姿から恋する女の片鱗を見せる。

ラスト近く、二人(重夫と信子)がひとつのコートで駆け戻ってくる姿に未来が見える。



嬉しくて己の弱視のことも忘れ、壁にぶつかる初々しさ、後ろから愛ある言葉をかけられた時の表情、

女性にとって恋とは、これまでにも変化を獲られるものであることを私たちは目にし、



少ない出番の中 毬谷さんの上手さがなければ埋没する信子を知る。



冒頭とラストの群集について

体制に染まる
こちら側の我らが観る箱庭の世界は、大勢の若者が腕を振り上げる姿は投石する一時代の学生蜂起と重なる。

その旗じるしであった盛の姿は神々しく脆弱であるが、
冒頭の群衆のひとりである妊婦がラストには赤子を抱き、向うの世界では皆が生き続けていることが解ると、
盛も皆も何かを背負い、羽毛の抜けた日々を生き抜き、再びのエメラルドのラインの波長をキャッチし飛び翔せたと感じた。

そして、緑の羽毛が舞い散るなか青白い照りに隔てられ、我らは あちら側へ手探りしてでも行けるのだろうかと不安になった。


口にする科白が堤の言葉となる。非日常な言葉が彼の本性となる。
尋常ならざる世界の本性は夢か狂気か。
彼も私も、現実や社会とは相容れられない世界を支配し、やがて支配される。


孔雀の羽根色のようにいろいろな想いが見えて、一色ではない物語を感じる。
浮かぶ想いは、琴線に架かり
其々の鏡に映し出される。浮かぶ想いは私の姿。

この繊細な舞台を静に体内の素粒子に沁みてゆくことを大事にしたい。

彼が世間で評価される時は繊細で脆い役柄のとき、私自身も役者に負担のかかる痛々しい役柄に魅かれてしまう。

もっとガラリと違う役柄でもと私は欲が出るけれど、
数多役者の中で「これほどの一押し」のものを持っている役者がどれだけいるか と考えると、
やはり役者も職人気質があってヨイではないかと再び想いが落ちつく


『世界中の男の顔は死んでいて

吉雄さんのお顔だけが生きていたの』



惚れた彼を求め

イメージのあわない役は

会いに来た吉雄に放つ科白のように云っていると気づく ………

そのことで三島の「班女」に新たな解釈が湧き上がる



あの物語は男の不実が基である

しかし

本当は「女の止まない要求」に「応え続けられない男の限界」に読み取れないか

会いに来た男・気に入らない男はしゃれこうべと平気で詰る

可哀相なのは花子ではなく吉雄




物語にもどって、

男たちは愛する女に対し、こんなにも正直に繊細に生きていたのに、

女たちの行為は何処までも自身の想いばかりで、傷つく相手を慮っての行為にどうしても思えない。

悲劇のヒロインぶっている二人の女の愛は自己中の塊だ。






心奪われるシーン

第一幕一場「ごきげんよう……これより死におもむくぼく、…」

傷みつつある俳優が科白により、みる間にグランディーションで若々しい当時の青年 盛に変貌する。その声姿に瞠る。

やがて「早く、きみたち、ぼくの手を…」と後ろに手を伸ばしても誰も探れず焦る
やつれた老顔に急速に戻っていった時、私はもう映画館の片隅に身体を預けていた。



第二幕六場「ごきげんよう……これより死におもむくぼく、…」

傷んでしまった俳優が、科白により自分の言葉も亡くし見るも無残な形相に変貌し、目を覆いたくなる病み方に私の心が痛む。

やがて『……いま、わたしのあなたと手を組んで…』と一人の男が決して巧くもないタンゴを踊り出す時、

彼が言う『あなた』は、私に言っていると感じると共に、悲しくも私は客席にいることに気づく。



あの時、ぎんがいつものように抱きかかえてくれさえすれば、

今も北国で網竿を持ってボクちゃんは、キラキラと目を輝かせて孔雀を探している。





御願い!堤さん!このまま役者業続けてね、キラキラと輝く目で続けてね。心の中で叫び続ける私。





私の「タンゴ…」はこれで一先ずおわり。

こんなにのめり込んだ舞台は久しぶり。 (エッて声が何処からか…)

やがて?もしも?彼が剥製の残骸と化した時、私は水尾かぎんかそれとも…。

坂を下り、涙があふれ出た、

谷底のスクランブルの向うからやってくる若者が舞台の若者と重なる。

演劇少女は俗な女に戻りつつ、去りがたい世界とのモザイクな想いに答えはもう出ていた。



ねえhakapyon!

毎週観る度に痛々しく顎が研ぎるほど痩せていく彼の姿は胸に刺さるけれど、
このまま突っ走るぜ!このまま いくぜ!









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