かぜはイタ!づら

2005/06/14(火)00:24

きっとね 春の名残に

<きっとね> と約束したことだけを おぼえている 春の街並       みなわ ひとし 「おじさん」 セーラー服の桃子が立っている。 今日中に仕上げなければいけない 仕事を抱え、喜一は少しいらだっていた。 「なんだ桃子。邪魔するんじゃないよ」 そう言うつもりで顔をあげた。 おや。あれ。 いつもの桃子じゃない。 なにがどうしたとも言えないけれど。 喜一は、少しの間ぽかんとしていた、らしい。 「おじさん、ぼんやりして。 どうしたの?」 いやいや、喜一はわずかに首をふった。 なんだ、やっぱりいつもの うるさい桃子だ。 「邪魔するんじゃないよ」 喜一は、やりかけの仕事に戻った。 桃子は、制服の袖口がぬれないように、 クルクルと腕まくりした。 小さな台所は、カップラーメンの空っぽに なったのや、汚れたコーヒーカップが だらしなく積まれている。 スポンジに思い切り洗剤をつけると、 ごしごしと洗い始めた。うちにいるときの桃子は、 喜一と同じで、食べたら食べっぱなし、 飲んだら飲みっぱなしの、 どうしようもない甘えん坊の 高校生だ。けれど、自分がやるしかないとなったら、 母親の見よう見まねで、俄然ヤル気を出すのだ。 「こんにちは」 あの、まったりのんびりした声は レモンさんだ、桃子は濡れた手を急いで拭いて 台所から顔を出す。 「こんにちは」と、桃子に笑いかけると レモンが買い物袋をゆらゆらさせた。 「桃子ちゃん、お好み焼き好き?」 「だーいすきよ」 「よかった。一緒に食べようと思って 材料買ってきたの」 言いながら、レモンは喜一の 背中を見た。 「忙しそうね」 「いつも追い込まれないと やらないタイプだから」 と桃子。 「聞こえてるよ」 喜一が肩をぐりぐり回すようにしながら 振り返った。 「忙しそうね」 レモンが気遣うように言う。 「やっとメドが立ったから。 お好み焼きだって。 うまいの?それ」 「超、超、ウマイの」 レモンが、おどけてみせた。 「そりゃいい。 腹ペコなんだ。 小野さん、くるんだ。 出張帰りらしい」 喜一が乱雑にひろげた 仕事を片付け始めた。 ホットプレートにお好み焼きの具 をのせて焼き始めるころ、 小野さんがやってきた。 「ほーら、また骨壷が 手に入りましたよ」 「ウオ、いいねー」 喜一が小野さんに グラスを差し出す。 「ふーん、いいにおいだ。 今日はお好み焼きですか」 小野さんは、プレートを のぞきこむように言った。 桃子が最後のお好み焼きのタネを プレートに流しいれようとしていた時の ことだ。 「アレー」 表通りをぼんやり見ていた小野さんが 頓狂な声をあげた。 喜一が、その声につられるように 外を見た。 「なーに」 プレートのお好み焼きとにらめっこ していた桃子が振り返る。 「元さん!」 叫んだのは、レモンだった。 桃子は、不自然に体を硬くして下を向いたまま、 コテで、お好み焼きをひっくりかえそうとした。 くるり。 ぽっとーん。無残に床に落としてしまった。 「ああ、台無しじゃないか。 まったくドジだな」 いつの間に近づいたのか、 桃子の目の前に 元が優しい目をしてたたずんでいた。 床の落とし物を、 元は、器用に手で拾いあげた。 桃子がさっと皿を差し出した。 「ありがとう」 桃子がとても小さな声でそう言った。 「お帰り」 言いながら、小野さんが、おやっという 表情をした。喜一に笑いかける。 喜一は、桃子のぽっと染まった頬に 目をみはった。ははーん。 笑みがこぼれる。 台所にふきんを取りに行っていた レモンが戻ってきた。 おしぼりを元に渡しながら 「お帰りなさい」 と、レモンの顔がほころんだ。 「いや、どうも。ただいま」 元は、急にテレたように、 斜にかまえた。黒いポロシャツからはみだした二の腕が、 見違えるようにたくましくなっている。 桃子の顔がほんの少し翳った。 おやおや、やれやれ、 喜一はそしらぬ顔をした。 「それでは、元くんとの再会を祝して、乾杯!」 小野さんの声が、ひときわはずんだ。 春の名残のように、 しずかに雨の降る宵のことだった。           楠田レモン

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る