インパール作戦
いよいよ 明日 ”検察側の罪人”が公開インタビューなどで、よく聞く”インパール作戦”とはなにか?明日、映画館で”検察側の罪人”を観る前にちょっと予習無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録私も詳しいわけでは全然ないので(^^;ざっくりとしかわからないんですが・・・73年前、日本軍が決行したインパール作戦。およそ3万人が命を落とし、太平洋戦争で最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決行されたのか。ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。なぜ、インパール作戦は実行されたのか?大本営の杉山参謀総長が最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。北から進攻した第31師団、1万7,000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」である。連合軍の調書によると、コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長は、コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長 調書より)3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。こりゃ~やってもダメなんんじゃないかな?って思いつつ、プライドというか、なんとかしてくれっていわれたから、とりあえずやってみたけど、考えも読みもめちゃくちゃ甘かったので、大河や山を越えてる間に食料も流され、インパールにたどり着く前に戦闘がくりひろげられ、これ以上無理っていってるのに、うやむやにされ、続けることに固執して、当初三週間の短期決戦だったはずが、4か月たってようやく中止が決定されたが、敵の攻撃を受けながらの退路に死者が増え、食料もなく、赤痢やマラリアなどの病死や飢えで命を奪われたざっくりいうと(あんまりにもざっくりすぎですが(^^;)こんな感じかな?詳しくは記事を参照してください(^^)v私のざっくりが、ざっくり過ぎると思うので(^^;このインパール作戦がどのように映画の中で語られているのか、楽しみです。