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Beauty Source キレイの魔法

クレア1846『救済』

クレア 1846年

『救済』

あれから3年。
あの方は、急にパリに戻っていらした。
ガラ公演が引けてから部屋に戻った私の枕もとに、あの方のメッセージを見つけた。
急いであの物置部屋に行ってみると、あの方は静かに横たわっていた。
ローマからの旅の疲れだけとは思えないほど、ひどくやつれている。
「何も考えたくないんだ。できればしばらく、ここで休ませてもらえないだろうか?」
私はうなづき、再びあの方との奇妙な生活が始まった。

その頃、私はよく実家に帰る機会を持っていた。
母が9回目の妊娠をしていて、あまり調子がよくなかったのだ。
ようやく二三人の贔屓がついていた私は、大して貢いでくれるわけでもないけれど
危険でもない人物を選んで、公演終了後に実家まで送ってもらう。
家に辿り着いてすぐ睡眠をとり、明け方から幼い姉妹たちとともに家や母の世話をするのだった。
私がしょっちゅう実家に帰るのに、気づいているのかいないのか、
あの方は何か、深い憂いを帯びた表情で、以前のようにピアノを奏でることもなく
ただ、日々を過ごしていた。

あの方が帰っていらして、ちょうどひと月目、母の出産が始まった。
非常な難産で、医者は母子双方の命が危ういかもしれないと、おろおろする父に告げた。
私が家より連絡を受け、顔色を変えて挨拶も早々に出かけようとするのを
あの方は不審に思ったらしい。
事情を説明する私の声に耳を傾けてから、遠慮がちに口を開いた。
「もし、もし、君と・・・君の家族がかまわないのなら、私を伴なってはくれないだろうか?」
「申し訳ありません。いまはおそらく、何のおもてなしもできませんので・・・。」
「何も、もてなしてもらおうと思っているんじゃないんだ。そんなこと、考えもしない。
もし、もし必要ならば、僕の知識が役に立てるかもしれないと思ってね。」
私が同意すると、あの方はローマから携えてこられた荷物の中から黒いカバンを抱えて、
共に馬車に乗り込んだ。

母も、生まれたばかりの妹も、瀕死の状態だった。
ひどく青ざめて、苦しそうな母と、ほとんど虫の息の赤ん坊。
あの方はすぐに私に大量の湯を沸かさせ、カバンの中の薬草を調合し始めた。
父は、突然、娘が連れてきた仮面の男をいぶかしく思う余裕もなく、
ただ私があの方に言い含められた「薬草学の本場スコットランドで学んだハーバリスト」という
触れ込みにすがって、器用に動く手元を見つめている。
明け方、ジプシー直伝の薬の作用で、奇跡的にふたりの顔に血の気が戻る。
「あなたは天使だ!」
父は伏し拝まんばかりに感謝し、私はそのまま気を失ってしまった。

気がつくと、私は小さな客間のベットにいた。
傍らにはあの方が、座ってこちらに目を当てている。
「もっと早く言ってくれていたら、心労回復の妙薬も調合できたのに。」
顔を近々と寄せられ、深い緑色の液体を手ずから飲ませてもらう。
甘苦いその薬湯の味に、私はなぜか涙がこぼれた。
「泣くほど苦くはないだろう?」
「ええ」
「もう一度、お眠り。オペラ座の支配人には、君の父上から連絡を入れてもらったから。
できればしばらく休暇を取るといい。」

私はあの方と共に、実家で三日ほど過ごした。
父はすっかり同郷の薬草師の信奉者になり、飲めないあの方にスコッチウィスキーをすすめながら、
回復した妹の名付け親になって欲しいとまで言い出した。
「娘は、あなたに命をいただいたのですから。」
あの方は、ひどく複雑な表情で父の言葉を聞いていたが、
父のぶしつけを詫びかけた私を制して言った。
「もし、もしできるなら、ルィーズという名前を・・・。」
父は大喜びであの方の手を取り、新しい子どもの名前を歌うように唱えながら、
隣室の母娘のところへ知らせに行った。

ルイーズ。
いったいどなたに縁の名前なのかしら?
もしかすると、ローマから帰る原因を作った方?
私の心のうちを読み解くように、あの方は口を開いた。
「母のミドルネームなんだ。かまわなかっただろうか?」
「お母さまの。光栄ですわ。」
あの方のお母さま。
きっと嗜み深く美しい方に違いない。
私は新たに、幼い妹に軽い嫉みを覚える。
彼女はいったい、どんな風に生い立ってゆくのだろう。
あの方に縁深き刻印をその生に戴いたのちに。


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