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Beauty Source キレイの魔法

クレア1846『音楽の天使』

クレア 1846年

「音楽の天使」

オペラ座以外にも、あの方の住む場所ができた。
母子回復のことを聞きつけた大家である未亡人が、父を通じて
長年の腰痛をたちまち解消する薬草を処方してもらい、
その効果に驚いてアパルトマンの半地下室をあの方に提供したのである。
父は大喜びで、食事時にはあの方を自宅に招く。
危機は脱したものの、まだ本調子にならない母のために、
私は相変わらず実家に戻ることが多かったから、
あの方がだんだんとその才能を、私の父の前でも現してゆく様子をみることができた。

オペラ座の道具係でもある父は、家にも小さな仕事を持ち帰る。
あるとき、ステージ上で入れ子を使うことになり、舞台監督に渡された
ラフなデッサンを前に悪戦苦闘している父のそばで、
あの方はたちまちわかりやすい設計図を描き起してしまった。
きちんと舞台に映える計算されつくされた縮尺で、見えない部分にまで
こまかく寸法を指定してある。
しかも美しい色合いで、それに使う材質まで至れり尽せりの完璧なものだった。

「あなたはいったい・・・。」
「スコットランドのあと、ローマで少し建築をかじっていたので。」
淡々とその部屋にある材料と足りないものを書き付けてゆくあの方を、
感嘆の目で見つめる父。
もちろん、オペラ座に運び込まれた芸術的センスの作品は好評を博し、
父はおおいに面目を施した。

アパルトマンの半地下室は、オペラ座の物置部屋よりもさらに色々なものが増えていった。
一つの壁は「たちまちなおる魔法の秘薬」処方の噂を聞いた人たちのために
パリ大学の化学実験室のようでもあったし、
また一方の壁はあの方がデッサンをするスペースでもあった。

「赤ん坊を描くのが一番難しい。」
それでも、紙の上で笑っているのは紛れもなく生後半年のルィーズ。
オペラ座やアパルトマンにたむろしている小動物の克明な姿もある。
踊り子たちが練習する姿や、私は行ったことはないが街娼達の巣窟らしき絵も。
中でも目を引いたのは、舞台装置のような奇妙なデッサンだった。

「それは、幻影、phantomを見せる装置なんだ。人々は皆、あり得ないもの、
ファントムを見たがっているらしいからね。
オペラ座での夢幻以上の奇蹟を見せることもできる。」
「あなた以上の奇蹟などありませんわ。ダ・ヴィンチか、それとも・・・。」
私の言葉に、あの方は静かに笑う。

あの方の声の素晴らしさも、家族に知れるところとなった。
夜半、ルィーズが泣き止まずに困ったとき、病気なのではないかと心配した父が
半地下室のドアを叩いたのだ。
すぐに階段を登り、ルィーズを抱き上げて様子をみたあの方は、
大事無いことを請合った上で、低く歌い始めた。

「夜は すべての感性を 鮮やかに磨き上げる
 暗闇は 想像力をかき立て 生き還らせる
 静寂の中で 感性という翼が 
 せまい籠の中から 解き放たれてゆく・・・」

ルィーズはすやすやと寝入り、あの方はこわれものを扱うように、ゆっくりとベットに横たえる。
傍らで聴いていた母はフレーズを静かに繰り返して、眠りについてゆく。
私は赤ん坊が寝汗をかいて起きないよう衣服を軽くしながら、ため息をついた。
やはりこの方は天使だと思う。
初めて歌声を聴いた父はなぜか何も言わず、じっとあの方の顔を見つめていた。


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