私はどこに行ってもあの方に出会う。
オペラ座で生徒にレッスンをつけているときも、
舞台のそでから、客席を眺めているときも、
ブローニュの森に誘い出されるときも。
レッスンのピアノの音が鳴り響き、旋律のなかに僅か数音、
あの方の曲と同じものを聞いただけで、
ボックス席につく貴族たちの中に、黒ビロードと金糸の装いを見ただけで
(彼らは浮かれたおもわに仮面をつけていることさえあるのだもの。)
踊り子たちが目的の、自称「クレアの崇拝者たち」の見え透いた甘言に
我と我が身を任せている自堕落さから、ふと呼び戻される瞬間にも・・・。
あの方は明け方、私の部屋へ忍んでこられることがある。
闇に紛れて、貴婦人や美しい寡婦の枕もとに声の媚薬をふりまいてこられた後に。
パリやロシアにいたときもそうだったけれども、特にここ、
バイエルン公爵のお城では少し大胆になっていらっしゃるようだ。
うまくいかなかった次の朝はいつもに増して皮肉な言葉を発されるから、ご機嫌斜めとすぐわかる。
上首尾に終わった夜は、高揚した気持ちを抑えかねるようにすぐ隣から、
部屋の中を歩き回ったり、低く歌いながら書き物をする音が聞こえてくる。
あるいはそっと、私の部屋へ。
いつでも美しく優しいミューズが必要なのは、芸術に身を投じた方にありがちなこと、
オペラ座でも、しょっちゅう目にしていることじゃないの、しょうがないのだわ。
ベットの中の私は、そのことを半身で理解しつつ、もう半身をちろちろと炒られながら、
あの方がゆっくりとマントをはずす音を聞いていた。
今夜は、ご自分の行動に少し酔っていらしたよう。
あの方は静かにベッドサイドに腰を下ろし、黒革の手袋をしたまま
静かに私の、額から流れる髪ひと筋を手にとった。
しばらくそれをもてあそび、またもうひと筋を手にしてゆかれる。
密やかな手の動き。
身を固くして耐えてはいたけれど、あの方はとっくに私が起きていることに
気づいていたに違いない。
「 まだ引き返そうとしているのか
振り返ろうと無駄な抵抗を
駆け引きはもう終わったというのに」
その夜のお相手にかがせたものと同じ媚薬が、耳に届く頃には
私は観念してしまうことを学ぶのだ。
翌朝には涼しげな様子で、顔をあわせるあの方。
「ルイーズはなんとか歌えそうだけれど、歌手には向いていないようだね。
ピッチが安定しそうもないし、高音域低音域、ともに極上とは言い難い。
歌いやすいように、祝福の曲には少し手を入れておいたよ。」
「ありがとうございます。」
「日向に植えるべき花は、日向に、だな。これはシシーも同じことなのだが。」
「どこまでも日陰に向く花もありますわね。」
「もちろんだ。どこに咲く花も、それぞれに美しい。」
朝(あした)の薔薇に、夕べの百合、今宵はどんな花を摘まれるのかしら?
もちろん、あの方がいくら花を愛でようと何をしようとかまわない。
どこであろうとも、あなたの咲く場所に私も咲こうと決めたのだから。
万能の方に捧げる奇聞13
『ふたりのマダム・ジリー 花』
***
この秋のビクトリア調の流行はオペラ座の怪人の影響だそう。
ファントムもラストで身につけていたようなフリルと透け素材のブラウスなど。
☆ビクトリアン・スタイル 薔薇を愛でる国ならでは。
彼が生きていたのはたしかにイギリスにおけるビクトリア時代(1837-1901)。
バトラー氏の映画初出演作品・「至上の恋」のヒロイン、ビクトリア女王の治世ですね。
ガス灯と霧に浮かび上がるこの魅力的な人物に拮抗する同時代人としては、
フランスのライバル・イギリスにおけるシャーロック・ホームズがあげられるかと。
音楽、建築の天才、薬草に通じ、魔術師としてレビューを行ない、
ペルシャの王室にも出入していたファントム。
かたやホームズは、植物学、化学、地質学に通じ、特に毒物に詳しい。
変装・演技の名人にして、ヴァイオリンを巧みに奏で、音楽への造詣も深い。
ビクトリア女王、ボヘミア王室の信頼も篤く、フェンシングも得意。
この19世紀後半、くしくもオペラ座でのクリスティーヌ失踪事件の起った1881年に
盟友ワトソンとロンドン。ベイカー街221Bで共同生活を始めたとされる名探偵を、
いまだに生きているものと信じて集い、語り合い、
さらには会合で物語に関する論文を大真面目に提出して発表し、
パスティーシュ(批判としてのパロディではない物語)を描く
シャーロキアン、ホームジアンと呼ばれる方々も数多。
世界中のファントムを生きていると信じ、愛し、熱狂している方々と通じる感じがします。
面白いことにホームズは探偵業を引退したのち、養蜂家になったと伝えられています。
「ふしぎ発見」で紹介されていたパリ・オペラ座での養蜂も、ガストン・ルルーの意を汲んで
ファントムがオペラ座の住人に行なわせているのかも。
【シャーロック・ホームズ傑作選】
ボヘミア王家のスキャンダル/赤毛連盟/ゆがんだ唇の男/まだらの紐 収録
フランスの探偵小説家として63篇の作品を書いたガストン・ルルーのもとに
このイギリスの大スターを凌駕する人物として降臨したファントムが、
およそ100年の時を経て、またもイギリスの作曲家と名優によって
不朽の存在になり、ますます華開いてゆく。
こののち100年の幻想に思いを馳せるのも、また愉しからずや。
ファントムを信じる方々の浪漫ある限り。
☆
マコさま8896、
wakaba21さまにご示唆をいただきました。
いつもありがとうございます。