Beauty Source キレイの魔法

2006/08/20(日)20:48

疎開と機銃掃射・オーラの泉・終戦61年特別企画・海老名香葉子さん1

オーラの泉(582)

「つい60年前まで、日本が戦争をしていたことが考えられないんですけれども。」と太一くん。 美「アメリカと日本が戦争したことを知らない若い人がいっぱいいるんですよ。 建物とか、生命だけじゃなくてね、伝統とか文化とか人の心も、全てを灰にしたんですよ。 それまで日本は、アインシュタインもエジソンもチャプリンも、モネもマネもゴーギャンも、 ロートレックもゴッホも、『日本ってなんて素晴らしい。』世界中から尊敬されてたんですよ。 だから、60年たってもいまだに取り戻せないっていうのがね、本当に腹立たしいですよ。」 江「私も戦後の生まれですからね、戦争を知らないわけですけれども。」 美「でも名残があったでしょう?」 江「そうなんですね。祖母からしっかり聞かされてて。 私は東京の下町生まれですから東京大空襲がありました。 だからその時の話で、どうやって生き延びていったか、常に聞かされていたので、 私にとってはものすごくリアルなんです。その想像の域だけでもリアルなんですね。」 美「これは絶対に、語り継いで、語り継いで、語り継いでね、その時代、その時代の人たちに、 二度とこんな愚かなことをさせないように、語り継いでゆく義務があるんですよ。」 【美輪明宏 戦争と平和愛のメッセージ】  ☆ 東京大空襲・・・1945年3月10日 第二次大戦中、 アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾(しょういだん)1600トン以上を投下。 東京の6分の1が焼失し、10万人以上の生命が奪われた。 第二次世界大戦は世界中で6000万人以上の犠牲者を出し、 日本人だけでも犠牲者は300万人以上。 東京大空襲は終戦の5ヶ月前。このとき6人の家族をいっぺんに失ってしまったのが 故・林家三平さんの奥さま、海老名香葉子さん。 とても可愛らしい少女のような声と笑顔の女性で、苦労を微塵も感じさせない明るい雰囲気の方。 番組をよくご覧になっていらっしゃるようです。 海「もう観ていてどきどきして。美輪さんも江原さんも的確にお話になっていらっしゃるから。 そうそうって思いながら。」 お二人とは初対面ながら、夫君の林家三平さんは美輪さんとご交流があったようです。 美「ご主人の三平さんは、よく新宿七丁目のライブハウス『銀パリ』ってところへ。 ずっと40年出てましたからね。そこへね、しょっちゅういらしてたの。」 国「戦時中のお話を聞きたいんですけれども、海老名さんは当時11歳?」 海「はい、小学校五年生でした。」 本所深川(墨田区)生まれで、生家は江戸時代から続く竿師(釣竿職人)。 お父さまは竿師として日本一だったそう。 東京大空襲があったとき、海老名さんは、たったひとり沼津の親戚へ疎開(そかい)中。 海「父も母も祖母も。祖母は国防婦人会の副会長をやってました。 兄は3人おりまして、4人目が女の子の私で、8歳下に可愛い弟がいたんです。 この8人家族で、私ひとりだけ疎開しまして、家族は残ってたんです。」 国「家族と別れるときのことは覚えてますか?」 海「よーく覚えてます。母が二階の母の箪笥の前に座りましてね、私の手をギュっと持ってね、 『かよ子、あんたは明るくて元気で強い子だから大丈夫ね。』って言ったんですよ。 その後、母は涙をぽろ、ぽろ、ってこぼしたの。 それまで私は、はしゃいでたんです、出かけるので。 でも母の涙を見たら、心細くなったんですよ。 『もし疎開してお友達ができなかったらどうしよう。』って言ったら、 また私の手をギュっと持って、 『あんたは明るくて元気だから人に好かれるのよ。だから大丈夫よ。』って 念を押して言ったんですよ。で、疎開しました。」 国「お父さんは?」 海「父は葛篭(つづら 衣類を収納する箱)を持ってくれて、弟にね 『こうちゃん、姉ね(ねえね)はね、頑張って疎開するからね。』 弟は数えの四つで、可愛い子でしたの。『姉ね・・・』って言っておもちゃ箱に行きましてね、 私に、ひょっとこの絵が描いてあるメンコをひとつ持ってきてくれたんです。 それをポケットに入れて、父に連れられて疎開しました。」 【天国の子どもたちから】 国「ちょっとわからないんですけれども、何故、海老名さんだけが疎開したんですか?」 海「軍で強制的でございました、あのころは。ちょうど私が五年生から、 強制的に全員、疎開することに。」 国「お兄さんはおいくつだったんですか?」 海「兄は中学一年でした。」 国「なるほど。中学一年生だったから疎開せずに。」 ☆ 強制疎開・・・第二次大戦末期、戦火を逃れるため、 幼児・老人・学童などが地方へ避難させられた。 美「それは大人の手が足りなくて、学徒動員で疎開できなかったの。 何故、小学生が疎開になったか。次の日本を背負って立つ種を絶やしちゃいけないから、 強制的に無事なところへ疎開させられたの。」 ☆ 学徒動員・・・第二次大戦中、中学生以上の学生は軍需産業などの労働力として動員された。 沼津に行っても、三日に一度は家族から手紙が来て、寂しさを紛らわせてくれていたそう。 国「どんなことが書かれていましたか?」 海「父はね、いつも頭のところで、『かよ子ちゃんの夢を見ます』って書いてあるんですよ。 『寂しくなったら、東京の空に、父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんと、三回呼んでごらんなさい。』 って書いてあるんです。」 美「やさしいお父さまね。」 海「ええ。」 【海老名香葉子 さみしくなんかなーいよ】 危険を避けて疎開した沼津にも1945年には8回もの空襲があり、 市街地の大半は破壊されたそう。また、人を直接攻撃する機銃掃射も。 海「低空で飛行機が飛んで来るんですよ。一度なんか学校で帰宅命令が出まして、 空襲警報のサイレンも何も鳴らないうちに、米軍機がワーと来まして。 防空頭巾を被ったまま夢中で、垣根に頭を突っ込みましたの。 しばらくたってみたら、防空頭巾に鉄の破片が刺さっていて、慌てて落としました。 火みたいに熱かったんです。 それから近くに自転車がひっくり返って、ぐるぐる輪っかだけ回っていて。 はっと気がついたら血がぱっと広がって・・・。」 国「目の前で自転車に乗っていた人が、飛行機が来たことによって・・・。」 美「飛行機の上から撃つのよ。ほとんど面白がって撃つの。」 江「低空飛行っていうのは、どのくらいまで下がってくるんですか?」 海「顔が見えますよ。」 美「顔が見えるくらい。」 お二人が同時に答えるのに、太一くんは驚き、江原さんは何かが腑に落ちた表情に。 江「実は祖母からね『本当に操縦しながら笑ってた』とかね。 作り話だろうと思ってたんですよ。顔が見えるまでね、 『そんな低空飛行ないだろう』と思っていて。」 美「面白がって来るのよ。それで飛んで来るときにエンジンを切ってくるの、 音がしないように。スーッと無音のまま、爆音がないのよ。 そばに来てから、急にエンジンをかけて。 私も千々石(ちぢわ 長崎県)ってところに疎開して、機銃掃射やられたんだけど、 面白がって撃ってるの。標的をゲームでダーっと撃つみたいに。 私たちは逃げ惑うじゃない?そうしたら、また引き返してくるのよ。 もう、面白がって楽しんでるの。」 国「信じられないですね。」 美「そうよ。」 明日は海老名さんの東京大空襲のお話と 九州男児☆美輪明宏さんの長崎に投下された原爆の体験です。 *** オダギリ・ジョーさん、加藤あいさんなど、他のゲストの方の回を読んで下さる方は 「精神美(オーラの泉など)」へ

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