自分の美しさにさえ気づかない無垢さを持ち、
人に提示されたものを疑いなく受け入れてしまうドリアン。
自分の美しさも醜さも、感覚を暴走させる魔力も。
(舞台の内容に触れますのでお読みになりたくない方はどうぞスキップなさって下さいね)
三人の主要登場人物のうち、ヘンリーのみが生き残るのは
彼が身分の上下を見極め、自分の世界に引きずり込んでよいか確認してから、
可能性を提示するに留まるため。
意のままに動かすテクニックはあっても選択の自由を与えているため。
「魂のみが感覚を救い、感覚のみが魂を救う」という警句も
ヘンリーにとっては、言葉を弄するか、芸術で五感を愉しませる範囲に留まる。
一方、ドリアンは行為の人。
人に提示されたものを疑いなく受け容れ、実行に移してしまう。
恋したものには素直に近づき、耽溺した挙句にあっさり捨て去る。
何の罪悪感も感じないままに繰り返し繰り返し…
彼にとっては、何故関わった人々が破滅してゆくのかが理解できない。
経験がまったく、次の行為のための道しるべにならない。
もしくは、それがいつまでも若いままでいる秘訣である可能性も。
魂を包むのは記憶というローブ。
自分の美しさのみ愛するナルキッソス。
自分が美しいという記憶のみが五感を遊ばせることへと駆り立て
五感を遊ばせることのみが永遠の美しさという幻想へと誘う。
少女の死は、身分社会の格差が顕著だった当時ならば予想できたこと。
同時代を描いたフランスの小説「オペラ座の怪人」や「椿姫」や、
ドリアンと同じく英国の小説「エマ」に題材として取り上げられているように、
身分の壁を越える試みは、案外ありふれたものだったと推測できる一方、
花をいったん温室に入れてから、一気に外に出すような結果になることも
しばしばだったのでしょう。
少女の死のトラウマは、まるでドリアンをエリザベート夫人のごとく
変わらぬ若さと美への追求へと無意識に駆り立てているように。
言葉によって記憶を塗り固め「役に立たない」芸術によって
衝動を昇華しているかに見えるヘンリーにくらべ
行為によってのみ、立ち位置を再構築するドリアン。
時に物語の進行役として立つヘンリーと、
序文にも登場するオスカーワイルドのイメージは
ほぼ重なるように思えるのですけれども、反して晩年、
行為の人に押し上げられてしまった作家の、
メタモルフォーゼの経過のひとつ、にも観得るこれらの肖像。
勇躍その名を轟かせた頃の面影は見る影もなかったという
行為に踏み出した荷を背負ったワイルドの最期の姿は
己の創り出した行為の人が導いたものだったのかもしれません。
***
山本耕史さんの舞台を観るに当たって、神戸、大阪も歩くことができ
洋館を巡ってドリアンのいた時代の雰囲気も味わうことができました。
また機会をとらえて「観る旅」に出かけたいなと思います。
拙き戯言、ご覧いただきありがとうございました。
「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
「神戸&大阪街歩きの日記」