再録・戦争と家族 オーラの泉
知り合いを転々としながらも、お父さまの交友関係でご実家の焼け跡を訪ね、立て札に連絡先を書いてくださる方々の中に、「金馬来たる、連絡乞う」の文字を見つけた海老名さん。終戦記念スペシャルとして2006年に放送された番組の模様を再録します。***美…美輪明宏さん国…国分太一さん江…江原啓之さん海…海老名香葉子さん(昨日の日記より続き)海「訪ねて行ったら、『生きてたのかい、よかったねぇ』と言ってくださって。その日のうちに、私、拾われました。『うちの子におなり』って言ってくださって。」昭和25年(1950年)に、落語家・先代柳家金馬氏に引き取られたそう。美「でも、当時は落語家さんたちも大変だったでしょうに。」海「『うちの子におなりよ。苦労しただろうになあ』って言ってくださって、その日のうちに暖かいお布団に寝かせてくださったときに『これで助かった』と思いました。」それからお兄様を探して、ようやく再会。幼い顔に似合わぬ大人びた口調で、神田・今川橋で着物の腰紐を売っておられたそう。海「『なんで東京なんかに出てきちゃったんだ。おばさんの家にいればよかったのに』って兄は泣いているんですよ。」美「偉いわね、そのお兄さん・・・。」国「それまで、支えていたものは何だったんですか。」海「無我夢中ですね・・・。」美「生きる本能ですよね・・・。」海「無我夢中で、親兄弟から来た手紙の束を背負ってました、いつも肌身離さず。弟が生きた証はメンコがひとつあるだけ。」国「ずっと持ってたんですか・・・。」海「はい・・・。」金馬氏の紹介で三平さんに出会い、やがて海老名さんは林家一門を支えるおかみさんに。海「三平の母が、よく来てまして。『丈夫で、元気そうで、長持ちしそうでいいわね』ということで私、嫁にもらわれました。」海老名さんは本当に嬉しそうに、にこにこと可愛らしい笑顔でおっしゃいます。【海老名香葉子 玉ねぎコロリン】近年、海老名さんは慰霊碑「哀しみの東京大空襲」(現龍院墓苑前)と、平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園内)建立に奔走。海「私は大勢の人が集うところに、どんなことをしても『平和の母子像』と慰霊碑を建てたい一念で、個人で動きました。」犠牲者が累々と積まれていたという上野の地に、終戦後60年の節目である2005年に完成。それまでには数多の苦労と、不思議な出来事に出会われたそう。空襲のあと、お父さまとお母さまに呼びかけ、「返事の代わりに風を吹かせてください」と祈るも、なんの徴もなかったため、「死んだ後は無」と思っていたという海老名さん。ところが、慰霊碑建立が難航し、諦めようか迷いながら眠りについたとき、頭の上から冷たい風が吹き、後ろで白い着物で坊主頭の男性の気配がした。海「とんとんと肩を叩かれて。『なあに、なあに?』と言ったら、頭の中で『頑張って慰霊碑を建ててくれ』って言ってるような気がしたんです。『私、どんなことがあっても、頑張って完成させるから。大丈夫だから』って言ってるのに、まだとんとん叩いているものですから、私その人の手を持って、引っ張ったんですよ。そうしたら、その人が私の前に倒れてきて、髭のザラザラが頬に感じられたんですよ。」気分が悪くなり、起き上がるも、その髭の感触は残っている。そのほかにも彫刻を作る方の手が腫れ上がり、完成に間に合わないと思われたときも治ってしまったり、使っていた道具の破片が胸に突き刺さったときも、たまたまポケットに入れていたラジオに当たって助かったりなど、他にも様々に、奇跡的なことが起こったようです。江原さんによると、焼け跡でサツマイモをくださって励ましたのはお父さま。そして、坊主頭の男性は、成長した弟さんなのだそう。江「四つで亡くなった弟さんが、成長して見せるんですよ。そんなに立派な大人になっちゃうわけ。それと、蓄音機の思い出があるんですか?」海老名さんのお顔が明るくなり、子供の頃にご実家にあった大きな蓄音機の周りに、家族全員が集っていた様子をお話になりました。その愉しい思い出をずっと忘れないで欲しいというお父さまからのメッセージ。江「思い出だけは残りますものね。物が焼き消えてもね。」海老名さんの後ろにいらっしゃり、慰霊碑についても協力してくださったのがお姑さん。江「二人羽織のように、一緒になって働いてくれましたよ。」海「そうですか・・・。信仰家でした、義母は。助けてくれたんだわ、それじゃあ。」江「それはひとつには、『世のためにいい事をしている』という感覚もあること。もうひとつには、『感謝の気持ち』ですって、香葉子さんに対しての。それとね、三平師匠も助けてくれてますよ、このお母さんと一緒に。」【海老名香葉子 海老のしっぽ】三平さんはきちんと浄化していらっしゃるそうで、それでも海老名さんのおそばにいることも多いのだそうです。海「浄化しているけど、上に行っていない?」江「それはそうかもしれない。」美「上に行っちゃったら、行った切りの状態になったりする場合もあるの。あまり高いところに行くと。」お亡くなりになった家族は、海老名さんのことに安心し、完全に浄化されている。行方不明になっていたお兄様も竿師となってご実家「竿忠」の四代目となり、江戸和竿協同組合の組合長を務めておられるそうです。これまで身を律することで生きてきた海老名さんに、「かよ子ちゃんに戻って、女の子らしいファッションを、青春を、今から楽しんでいい。ご褒美です。」というメッセージも。お父さまとお母さまからは「置いていってごめんね」とのお言葉。江「それからこれは、海老名さんだけではなくて、皆さんにもなんですが『家族を大切にしてください。』とおっしゃってます。世の中みんなに対して、『家族、絆を大切にしてください』ということを伝えたいと、お父様もお母様も、お姑さんまで。」海「やっぱり家族ですかね。いなくなっても家族ですね、守ってくれるのは。」江「本当にそうですよね。その家族の広がりが世界であれば、世界と感じ取れれば、戦争はないんですよね。」海「そうですね。」【江原啓之のスピリチュアル子育て】国「世界を見れば、戦争に近い場所もあるわけじゃないですか・・・。」美「近いんじゃなくて、戦争中なのよ。」国「いまの話を聞いていて、この話がどこかで、そういう気持ちになっている人がいるっていうだけで、本当にくだらないことを僕らがやっているということを、本当に今日はひしひしと感じました。このオーラの泉を今日、見た方の中で、同じような気持ちになっていれば、同じことは繰り返さないのかなと。本当に絶対繰り返しちゃいけないことだと、思うんで。」美「それにしても、いまの時代はねえ。あのころの地獄に比べれば、有難尽くめだとお思いにならない?」海「だからそれこそ、毎日が勿体無くて。時間ももったいないし、物ももったいないし、着てるものももったいないしっていう感じ。」美「ですよねえ。」海「本当にありがたいって思います。」美「隙間風の入らない建物にいて、暖かい布団、着るものがあって、食べるものはお金を出せばいくらでもある。有難尽くめですよね。」海「ええ。」美「かえって今の若い方は不幸かもしれませんね。生まれたときからそれがあるから。ありがたみがわかりませんよね。一度禅寺へ行って、穀断ち(修行のために誓いを立てて、米・麦・豆など穀類を食べないこと)をすればいいんですよ。そうすると、お水一杯でもありがたいもの。」国「考えさせられましたね。僕が知っている戦争っていうのは学校で習ったことであり、それは『19○○年に東京大空襲がありました。』そこで話は止まっていたので、こんなに悲惨なんだっていうことを、初めて聞いたような気がして。」【CDブック わたしたちの平和のうた】美「若い人にはね、じゃあこう考えたらどう?って言うの。『家へ帰ったときに、もう明日からお父さんいないのよ。愛するご主人はいないの、わが子も会えないのよ。孫が可愛い可愛いって言っても、孫が死ぬのよ。兵隊にとられちゃうの、赤紙一枚で。一生会えないの。死ぬんですよ、その人たち。考えてみてください、どういう思いをします?可愛いわが子が明日からいなくなるのよ。自分が殺したわけでもなく、病死でもなく、理不尽に人に命令されて死に追いやられるのよ。それが戦争なのよ。』って。」***ご覧いただきありがとうございました。「オーラの泉・日記リンク」